この記事では、カミュのエッセイ『シーシュポスの神話』について解説します。
サルトルによって「小説『異邦人』の哲学的翻訳」と言われたエッセイ。
『シーシュポスの神話』は次の四章から構成されています。
- 不条理な推論
- 不条理な人間
- 不条理な創造
- シーシュポスの神話
「シーシュポスの神話」とは?
シーシュポスとは、ギリシャ神話に登場する人物の名前です。
二度も神を裏切った罰により、大きな岩を麓から山頂まで運ばされます。
しかし山頂に着くと岩はひとりでに麓まで転がり落ち、また一からやり直し。
シーシュポスはそんな無益な行為を永遠に繰り返させられるのです。
カミュはそんなシーシュポスの運命に、いつかは死んでしまうにも関わらず、それでも生き続けようとする現代人の姿を投影しました。
冒頭は次の文章で始まります。
「真に哲学的な問題は一つしかない。それは自殺についてである。」
カミュ「シーシュポスの神話」新潮社,1969,p.12
この著書でカミュは過去の哲学者たちの不条理への向き合い方を否定し、不条理を積極的に受け入れるという立場を表明します。→(詳しくは「不条理を解決する3通りの方法」をご覧下さい。)
では、カミュの立場は他の哲学者たちと具体的にどう異なっていたのでしょうか。
なぜ不条理を受け入れられるのか
それまでの哲学者は、あらかじめ存在している世界や人生に意味を見いだそうとしました。
それに対してカミュは次のように考えます。
不条理とは、「理想と現実のギャップ」などのように、人間が世界と共存しようとした時に生じる唯一の絆である。
したがって不条理から逃げることは、世界と自己との間の絆を否定することと同じ、なのです。
むしろ理性を保ったまま不条理な現実を受け入れる態度を、カミュは「反抗」と呼んで賛美します。
要約すると、「何の正当性も持たず産み落とされた我々は、しかし現実に図々しく居座って良い」。
そしてその態度を、カミュは「反抗」と呼びます。
この「反抗」という概念については、『反抗的人間』の記事で詳しく解説します。
不条理を解決する3通りの方法(キェルケゴールの場合)
キェルケゴールは『死に至る病』の中で、「不条理を解決する手段は3通りある」と述べています。
・一つ目は「自殺」。
自らの手で不条理な人生を終わらせてしまうことです。
しかしキェルケゴールはキリスト教徒だったため、この手段を否定しました。
・二つ目は「神を盲信すること」。
現実を超越した存在を信じることで、救済を期待する。
キェルケゴールはこれを推奨しましたが、そのためには理性を捨てる必要がある、とも書いています。
この期待を持てない状態こそ「絶望」であり、「死に至る病」であるとキェルケゴールは主張しました。
・三つ目は「不条理を受け入れる」。
不条理な現実を認めて、そういうものだと割りきって生きることです。
キェルケゴールはこれを「狂気の沙汰」と呼んで否定しました。
不条理を解決する3通りの方法(カミュの場合)
ではカミュはどう考えたのでしょうか。
彼は『シーシュポスの神話』でキェルケゴールの立場を批判します。
・まず「自殺」について。
これは不条理に対する敗北宣言であるとして、カミュも否定します。
・次に「神を盲信すること」について。
これをカミュは「哲学的自殺」と呼んで、自殺と同様に否定しました。
なぜなら理性を捨てることになるからです。
ここがキェルケゴールとの相違点です。
・そして三つ目。
カミュは「不条理を受け入れてなお、理性的に生きられる」と考えました。
不条理を受け入れるということは、人の生きる意味は初めから存在しない、と認めることです。
ということは、「何のために生きるのか」は自分で自由に決められるということになります。
『シーシュポスの神話』の中で述べている次の言葉は、「生を十二分に謳歌しよう」とするカミュの生き方を端的に表した言葉だと思います。
「不条理から3つの結果を得た。反抗と自由と情熱だ。私は自分の意志で人生に待ち構える死を受け入れ、自殺を拒絶した」
まとめ
「反抗」という概念を打ち立てて過去の哲学者たちを批判したカミュ。
彼は不条理を受け入れて世界と共存する道を選びます。
そして、「人生には何の意味も無い」からこそ人は自由に生きられるのだ、と考えました。
これは、不条理とは「結論」ではなく、自分の人生を自分の意思で生きるための「始まり」と見なす、ということです。
生来の明るさと生きることへの情熱を兼ね備えながら、不条理について真剣に悩んだカミュだからこそ辿り着けた答えだと言えるでしょう。
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