欠如を引き受ける国ーーラカンサルヴァティズム的国家設計論
序章:問いは今も語られていない――欠如の国に生きるとは何か
日本は、戦後という時代を生き続けてきた。しかしその「戦後」とは、一体何の後だったのか。単なる敗北の記憶ではない。国家としての象徴を失い、語るべき言葉を失い、あるいは語ってはならないことを内包したまま、沈黙を続けてきた時代である。
戦後レジームの本質とは、「語られざる中心」の不在にある。象徴天皇制という名のもとに、“語らない中枢”は制度として維持されたが、それは果たして象徴的空白を支える構造として機能していただろうか? 答えは否である。
日本は欠如を「放置」してきたのであって、「引き受けた」のではない。欠如とは語れぬもの、だが語らなければ暴走するものでもある。現代の日本社会が抱える分断、虚無、享楽、そして国家の空洞化は、この欠如の倫理なき放置が引き起こした構造的帰結である。
本書は、ラカンサルヴァティズムという構造倫理の立場から、日本が「欠如を引き受ける国家」へと移行するための思想と設計原理を提示するものである。象徴天皇制、戦後憲法、教育制度、記憶の語り方、外交関係――これらすべてを“語れぬもの”の構造として捉え直し、そこから制度を再構築する。
とりわけ、GHQの占領政策は、単なる軍事的支配ではなかった。それは日本の象徴構造そのものを破壊し、文化・教育・法・言語を通して、国民の無意識に「敗北の構造」を刻み込む精神の総力戦であった。その意味で、戦後とは未治療のトラウマであり、日本国家とはいまだ分析を受けていない患者である。
だからこそ、私たちはいまこそ語らねばならない。言葉を与えるのではなく、語られざるものの位置を制度として定めること。象徴の欠如を中心に置いた構造を、倫理として社会に埋め込むこと。それが本書の目的であり、国家という問いへの私たちの応答である。
第一部:喪失と沈黙の構造史
第1章:敗戦という象徴の断絶
1945年、日本は敗戦を迎えた。しかし、それは単なる軍事的敗北でも、政治的終焉でもない。それは象徴の断絶であった。
天皇がラジオで「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と語ったその瞬間、戦争は終わった。だが、終わったのは軍事行動だけだった。国家の象徴構造は、あの一言をもって沈黙に包まれたのである。
それまで天皇は、「現人神」として国家の中心にありながら、語られない中枢であった。語られないことが許されていたのではなく、語られてはならないものとして保持されていた。その沈黙は、信仰であり、制度であり、象徴的構造そのものであった。
しかし、敗戦とともにその沈黙は制度的に剥奪された。天皇は「人間宣言」を通じて、語られるべき存在とされ、象徴の座を空位にされた。これは、単に神性を失ったという意味ではなく、国家がその象徴的中枢を失ったことを意味する。
敗戦とは、国家における象徴機能が“去勢”された瞬間であった。
しかもこの去勢は、否認も拒否もできない形で上書きされた。GHQは軍事占領だけでなく、象徴的構造への全面介入=「象徴の設計変更」を行った。天皇を象徴と規定した現行憲法も、象徴の沈黙を尊重するというより、象徴の空洞化=意味の凍結として記述しているにすぎない。
このときから、日本という国家は、語られるべき象徴を持たないまま、語ることだけを強いられる時代に突入した。
教育、報道、法制度、外交、祝祭、記念日、政治用語――すべてにおいて「語り続ける国家」になったが、その中心にあるべき欠如は、制度的に言及不能なまま放置された。結果として、語る国家=享楽的国家が出現し、語らない構造=倫理が失われたのである。
本章ではこの断絶を、制度的・構造的・無意識的観点から読み直し、国家の喪失とは何かを明らかにする。
第2章:天皇制の中空構造――古事記から象徴天皇へ
日本の天皇制は、単なる政治制度や国家元首のあり方を超えて、きわめて特異な「中空構造」として歴史的に形成されてきた。それは、語ることができない中心、かつ語られることを求められる象徴として、構造的に「ズレ」を抱えたまま連続してきた制度である。
この章では、古代神話における天皇の位置づけから近代、そして戦後の象徴天皇制に至るまで、天皇がいかに「語られぬ空白」として制度化されてきたか、そしてその空白がいかに破壊され、また復元されようとしてきたかを、ラカンサルヴァティズムの視点から再構成する。
1. 古事記と「中空の主権」
日本神話における天皇は、アマテラスの血を引く存在として、神性と人性の間に置かれている。しかしその正統性は、直接的な神命よりも、語りの連鎖と沈黙の構造の中に成立している。
特に、天孫降臨や三種の神器の伝承においては、「天皇が何者であるか」は神の命によって語られるのではなく、語られないまま、ただ継承される象徴として成立する。これは、まさにラカン的な「大他者の不在=象徴の中空化」を思わせる構造である。
この意味で、天皇制とは「語られざることによって制度化された」稀有な象徴構造であり、政治的主権というよりは、**“沈黙を守る構造の要”**として存在してきたといえる。
2. 中世・近世における象徴の漂流
室町から江戸にかけて、天皇の政治的権威はほぼ消失するが、そのことがかえって象徴機能の「沈黙性」を強調する形となった。天皇は「語らぬ者」として制度の奥に退き、幕府が“語る側”を担ったのである。
この状態は、象徴的中心が構造の空白として制度に組み込まれるという意味で、ラカンサルヴァティズム的に極めて高度なバランスを保っていた。
3. 明治維新と“語られた天皇”の出現
しかし、明治国家はこの「語らぬ中心」を再び“語りすぎる中心”へと転化させた。国家神道と教育勅語において、天皇は制度的に“語られ”、象徴の空白は物語で埋められた。
これは、天皇の中空性を享楽化し、大他者の幻想(すべてを知り、命じる存在)として構成する試みであり、結果として統治権と象徴性の一体化という矛盾を生んだ。
4. 戦後の象徴天皇制と再び訪れた沈黙
1946年の「人間宣言」は、象徴機能を制度化したとされるが、実際には中空構造の“再中空化”を十分には果たせなかった。天皇は「語らないが語られる」存在としてメディアの対象となり、その沈黙は制度的沈黙ではなく、「語られることを避けた沈黙」になってしまった。
象徴天皇制が再び中空構造を取り戻すには、制度的・文化的に“語られざることの尊厳”を取り戻す必要がある。
この章を通じて、天皇制という制度は「語られることによって崩れる象徴」であることを明らかにした。次章では、戦後憲法とその享楽的構造について、どのように「欠如」が制度設計から排除されてきたかを検討していく。
第3章:戦後憲法の享楽的構造とその限界
日本国憲法は、「象徴天皇制」と「恒久平和主義」をその柱として掲げる。だが、この憲法が制定された時点で、国家の象徴構造はすでに深い断絶と空洞化を経験していた。天皇は神性を剥奪され、軍事力は全面的に否定された。言い換えれば、国家は制度的に「欲望すること」を禁じられたのである。
この去勢の構造は、倫理的には可能性を孕んでいた。国家が自らの享楽に制限をかけること、それはまさにラカン的な象徴化の出発点である。しかし、問題はその「制限」が、語られず、制度的にも構造的にも不透明なまま放置されたことにある。
1. 欠如なき制度の構築
戦後憲法は、個人の権利、民主主義、恒久平和といった“語りやすい理念”に満ちている。だが、そこには「語ってはならないもの」「語りえない中心」への配慮がない。
天皇は象徴とされたが、その象徴性は抽象的に処理され、構造的欠如を制度化する方向には至らなかった。9条の平和主義もまた、「戦争をしない国家」という語りやすいイメージに還元され、本来あるべき「暴力と欲望の構造的制御」としての問いは失われた。
このように、戦後憲法は一見ラカン的な去勢を含みながらも、去勢を象徴化せず、むしろ“享楽の否定による享楽の回復”を制度的に準備してしまったのである。
2. 欲望の回避=享楽の暴走
戦後日本の政治・社会運動・文化は、「欲望を否定することによって欲望を語り直す」という循環に陥っている。右派は天皇の復権を求め、左派は国家そのものの否定へと進む。
だが、そのどちらも「語ってはならない空白」を語ろうとしすぎるという点で、構造の倫理を見失っている。ラカン的に言えば、享楽(jouissance)を排除しようとして、それをより強く回帰させる症候に陥っている。
象徴の欠如は否認され、国家は語り続ける存在へと変質した。語ることが義務となり、問いを保留する力が制度から失われたとき、国家は“倫理なき享楽の構造”と化す。
3. 欠如を制度化する憲法設計へ
必要なのは、「語られぬものを制度に組み込む」という逆説的設計である。たとえば:
• 天皇制において「語らないこと」が制度化されているか?
• 平和憲法において「暴力を問うこと」が保証されているか?
• 主権者としての国民が「選ばなかった選択肢」を記憶できる構造があるか?
これらは、享楽の回避ではなく、享楽の構造的制御であり、欠如を制度に刻み込む試みである。
本章では、戦後憲法が持つ「享楽的構造」の限界と、その背景にある象徴の不在を確認した。次章では、「語られぬ責任」としての戦争記憶の構造を分析し、教育や社会言説の中に沈殿する「語ることの強迫」について検討する。
第4章:欠如を隠蔽する記憶――教育・歴史・語られぬ責任
戦後日本の社会構造には、記憶の層が深く沈殿している。しかしその記憶は、単に忘却されているのではない。むしろ過剰に語られ、政治的に利用され、教育やメディアを通して反復されてきた。語られ続ける記憶の中に、「語られてはならないもの」が逆説的に埋もれている。
本章では、戦後日本における戦争責任・加害責任・被害者意識の交錯を、「語ることによる隠蔽」という視点から検討し、ラカンサルヴァティズムの視座から、記憶と象徴の関係、そして責任の構造的位置について読み直す。
1. 「語る記憶」の暴力
日本の戦争体験は、戦後教育によって語り継がれてきた。だがその語りは、多くの場合、「加害の否定」か「被害の誇張」のどちらかに偏る構造を持っていた。
被爆体験、東京大空襲、沖縄戦――これらの出来事は確かに重大な歴史である。しかし、それらが「被害の記憶」として語られるとき、「なぜそれが起きたか」「何を加えたのか」という問いは保留される。つまり、“語ることによって、問いを語らない”構造が作動している。
ラカンの言う「享楽(jouissance)」とは、まさにこのような、意味を超えた“語りすぎ”のなかに現れる。語りすぎる記憶は、忘却よりも危険である。なぜならそれは、責任の構造的問いを不可視化するからだ。
2. 教育制度と“正しい記憶”の制度化
日本の歴史教育は、「過ちを繰り返さないために記憶する」と語る。しかしそれは、「何が過ちだったのか」を絶えず再構成し直すことなく、固定された罪と罰の形式として再生産される。
これにより、教育の場は「問いを問う」場所ではなく、「語るべき正解を覚える」場所へと変容する。
語ることの強迫は、記憶を倫理から切断し、象徴の空白を消し去ってしまう。そして、その空白の消失こそが、「語られない責任」=国家的トラウマを固定化する要因となっている。
3. 記憶のトポロジー――語られぬものの制度設計
必要なのは、記憶の形式そのものの再設計である。
• 「語られる記憶」のみを教育するのではなく、「語れなかった記憶」をどう保存するか
• 記念館や慰霊施設において、「語る展示」ではなく「問いを残す空間」の設計
• メディアにおいて、物語化ではなく、未解決性を維持する構造的語り
記憶を構造倫理の実践とするためには、「語るべきこと」ではなく、「語ることができなかったもの」にこそ制度的位置を与える必要がある。
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本章では、記憶と責任、教育と語りという二重構造において、語られないもの=象徴の欠如がいかに隠蔽されてきたかを明らかにした。次章からは、ラカンサルヴァティズムがこの欠如をどのように倫理として制度に組み込むかを検討する理論的基盤へと進んでいく。
第二部:構造倫理としてのラカンサルヴァティズム
第5章:象徴なき国家はどこへ向かうのか
象徴が不在であるということ、それは単に「象徴を持たない」という状態ではない。国家における象徴とは、単に記号や制度、人物や儀礼のことではなく、むしろ「語られえぬ中心」「答えのない問いを開いたまま保持する構造」のことを意味する。
ラカンサルヴァティズムは、国家を構成するこの象徴構造の喪失を、単なる政治的空白としてではなく、**享楽的な力の奔流に抗するための“構造の倫理の喪失”**と捉える。
本章では、象徴なき国家の行き着く先を検討し、それに代わる倫理的再構築の必要性を示す。
1. 欠如なき国家の症候
戦後日本は、象徴の欠如を語らずに放置してきた結果、いくつかの構造的症状を抱えている。
• 国家が空洞化し、個人主義的享楽が社会を支配する
• 政治が「語る力」ではなく「映える力」に還元される
• 国家を批判することが倫理とされ、国家を構想する言葉が失われる
• 問いを問うより、正解を配布する構造が制度全体に蔓延する
これらはすべて、象徴の不在、すなわち“欠如が構造として位置づけられていないこと”の帰結である。
2. 欠如なき国家の暴走と停滞
欠如を否認する国家は、二つの方向に引き裂かれる:
1. 享楽の暴走:国家の権力が全能性を帯び、「何でもできる」という幻想を抱く
これは戦前日本の全体主義とも通底するが、現在の情報社会においても形を変えて現れる(SNSポピュリズム、反知性主義)
2. 責任の停滞: 誰も語らないことが正義となり、結果的に「誰も語れない」状況が常態化する。
これは、国家が象徴的中枢を欠いたまま、「語るだけの民主主義」に堕する構造である
つまり、象徴の不在とは、語られたくないことが語られすぎることによって暴力性を増し、語るべきことが語られなくなるという矛盾の温床なのだ。
3. 欠如の倫理としての国家再構成
ラカンサルヴァティズムは、欠如を否定するのでも崇拝するのでもなく、「制度として引き受ける」ことを提唱する。
国家にとっての象徴とは、何かを命じるものではなく、命じられないものを制度的に維持する構造でなければならない。たとえば:
- 天皇制において、「語られないこと」が肯定されているか?
- 憲法において、「問いを保留する力」が制度化されているか?
- 教育において、「わからないことを問う倫理」が育てられているか?
これらの問いに「はい」と答えられる国家こそが、「欠如を引き受ける国家」である。
本章では、象徴なき国家の現在地とその構造的限界を明らかにした。次章では、ラカンサルヴァティズムの核心概念である「欠如の倫理」が、どのように制度的応用可能かを、より理論的に掘り下げていく。
第6章:「欠如の倫理」とは何か
ラカンサルヴァティズムにおいて「倫理」とは、単なる行動規範や道徳とは異なる。それは、欲望と享楽、そして象徴との関係性をどう構造として引き受けるかという問いである。とりわけ、「欠如の倫理」は、すべてを語らず、すべてを満たさず、**“空白のまま保持することを選び取る態度”**として位置づけられる。
本章では、ラカン理論における倫理の核心を確認しつつ、それがどのように国家設計に応用されうるかを考察する。
1. 欠如は回避されるか、支配されるか
人間は欠如を嫌悪する。分からないこと、足りないこと、不完全なこと。それらは不安をもたらし、快楽や意味で埋め尽くされる。
国家もまた同様である。制度の「わからなさ」や象徴の「空白」を嫌い、物語や理念で埋めようとする。だが、その埋め合わせこそが享楽の始まりであり、やがて制度の暴走や無意味な正義の連呼をもたらす。
だからこそ、欠如をそのまま維持することが必要なのである。それは「耐える」ことではなく、「支える」こと。構造を壊さず、空白を埋めず、問いを開いたまま残すという選択である。
2. 欠如の倫理=問いを問うことの制度化
欠如の倫理とは、具体的には「問いを問うことを許す構造」である。
• 憲法の前文に、理念ではなく「問い」を書けるか?
• 法律において、「例外」と「遅延」を組み込めるか?
• 教育において、正解ではなく「問いの継承」を制度化できるか?
これらは、単なる制度論ではない。国家の象徴構造に「応答しない場所」を設けることである。象徴の中空性を「維持する責任」として明文化することなのだ。
3. 欠如の倫理は希望でも悲観でもない
欠如の倫理は、世界を救う理想論ではない。むしろ、世界が救われないという前提に耐える構造である。
「なぜ語られないのか」「なぜ選ばれなかったのか」「なぜ問うのか」――このような問いを持ち続けること。答えではなく問いを制度化すること。これこそが、享楽を抑制し、象徴を維持する唯一の方法である。
ラカンサルヴァティズムは、保守と進歩、右派と左派、伝統と改革といった対立を超えて、「欠如をどう支えるか」という一点で思想を再編する。
次章では、この倫理を実際の制度へどう組み込むか、特に享楽の暴走に抗う構造設計について論じていく。
第7章:享楽の政治に抗う構造とは
現代の政治は、ますます享楽的構造に支配されつつある。ポピュリズム、反知性主義、陰謀論、炎上型言説、感情と即応の政治……それらはすべて、空白に耐えられない社会がもたらす政治的症候である。
ラカンサルヴァティズムは、この享楽の政治に対抗する唯一の方法として、「欠如の構造を維持すること」を提案する。つまり、語られないものがあるという前提を政治の中枢に組み込むという逆説的実践である。
本章では、享楽の政治がなぜ生まれるのかを分析し、それに対抗するための制度的構造と象徴設計の原理を提示する。
1. 享楽とは何か――満たされたがゆえの苦痛
ラカンにおける「享楽(jouissance)」は、単なる快楽ではない。それは「満たされることによる苦しみ」、あるいは「欠如の否認によって生まれる暴走する欲望」である。
現代政治はこの享楽に毒されている。人々は「語られない中心」を受け入れられず、答え・正義・原因・敵を探し続ける。そこから生まれるのが、陰謀論、極端なナショナリズム、あるいは感情の過剰反応である。
政治が「説明責任」や「透明性」を過剰に強調するとき、それはしばしば「答えがある」という幻想を制度的に押し付けているにすぎない。
2. 欠如なき政治は暴走する
享楽の政治とは、欠如を否認する政治である。
• 全てを語り尽くそうとする言説
• 構造を無視し、「私たちの本音」を正義とする運動
• 問いを潰し、「今すぐ答えを出せ」という世論の強迫
こうした政治構造は、かえって国家の象徴構造を崩壊させ、「誰が命じるのか」「誰が責任を取るのか」といった本質的な問いを不可能にしてしまう。
3. 欠如を守る政治構造の条件
享楽の政治に抗うには、「語らないこと」を制度として位置づける必要がある。たとえば:
- 議会における「遅延」や「保留」の制度的保証(即決しない文化)
- 憲法における「未解決性」の条項化
- 天皇制における「儀式的沈黙」の制度的拡張
- メディアにおける「語らない自由」の保障
これらはすべて、享楽の即時性を拒否し、「問いを開いたままにしておく空間」を社会に確保する構造的実践である。
享楽の政治は、単なる言説の問題ではない。それは構造の倫理の喪失に起因する。次章では、この構造倫理を制度にどう埋め込むか――「語られないものを制度化する」という逆説について掘り下げていく。
第8章:語られないものを制度化するという逆説
国家を支える制度とは、しばしば「語ること」によって正当化されてきた。民主主義、法の支配、表現の自由――それらはいずれも「語る権利」「語る責任」「語ることによる正義」と結びついている。しかしラカンサルヴァティズムの視点は、その前提を覆す。
語られることがすべてではない。むしろ、国家にとって最も重要なものは、「語られないまま保持される構造」にある。象徴、神話、伝統、沈黙、儀式、記憶の裂け目……それらを「語らずに制度化する」という逆説にこそ、倫理の可能性がある。
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1. 制度とは語られないものの容れ物である
あらゆる制度は、実は語られること以上に「語れないものをどう位置づけるか」を問う枠組みである。たとえば:
- 天皇制において、天皇が政治的発言をしないこと
- 裁判制度において、沈黙の権利が尊重されること
- 宗教的空間において、沈黙が祈りとして制度化されていること
これらはすべて、「語られないこと」が制度として守られている例である。
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2. 語られないものを明示する=位置を与える
制度は言葉で作られる。だが、その言葉がすべてを語り尽くすべきではない。
語られないものを制度に取り込むとは、それを「意味づける」ことではない。むしろ、「意味づけを保留したまま、その位置を明確にする」ことである。つまり:
- 沈黙の制度
- 保留の制度
- 儀礼と問いの制度
これらは、「語られないものの存在を、制度が保証する」というラカンサルヴァティズム的装置である。
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3. 設計原理としての“構造の空白”
このような逆説的制度設計は、以下のような原理によって支えられる:
• 制度には「明示的な空白の場所」が必要である(語らない義務)
• 制度には「例外」を許容するゆらぎが必要である(近傍の倫理)
• 制度には「遅延」「沈黙」「形式」が組み込まれるべきである(リズムとしての構造)
こうした設計こそが、「欠如を引き受ける国家」へと接続される構造的実践となる。
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第二部の終わりとして、本章は、ラカンサルヴァティズムの理論的中核――語られないものへの応答の構造――を明示し、それを制度のレベルへと敷衍する方途を示した。第三部では、いよいよこの倫理的構造を実践へと接続し、制度、文化、教育など具体的領域への提案を展開する。
第三部:制度・文化・教育への提案
第9章:天皇制を「沈黙の制度」として再定義する
象徴天皇制は、現代日本における最も特殊かつ最も誤解されている制度の一つである。それは一見して“無害”で“文化的”であり、政治的中立を装っているが、その実体は常に論争の的となり続けてきた。
ラカンサルヴァティズムの立場から見れば、天皇制は単なる伝統や文化の産物ではない。それは、「国家における象徴的欠如を制度として保持するための装置」である。言い換えれば、語られないことが構造として保障される制度の典型なのだ。
本章では、この制度の意味を再定義し、その「沈黙の制度」としての本質を明示的に制度設計へと転換する可能性を検討する。
1. 語らないことの制度的価値
天皇は憲法上、「国政に関与しない」とされる。だがこの規定は、単なる政治的中立を意味しない。むしろ、「語らないことによって語られる構造」を制度の中に刻むことで、国家の欲望や享楽から距離を取る象徴的存在を形成している。
ラカン理論で言えば、これは「大他者の不在」を可視化する制度的実践であり、国家の中にある“中空”の構造を保証する唯一の存在なのである。
2. 現行制度の限界と危うさ
とはいえ、現在の象徴天皇制は、その沈黙の構造を十分に制度化できていない。たとえば:
• 天皇の言葉が報道され、政治的含意を持つような扱いを受けること
• メディアが「語らない」天皇像を補完しようと過剰に“語る”構造
• 皇室の存在が「家族」や「伝統」の理想像として利用されること
これらはいずれも、象徴的欠如を維持する構造を破壊し、「沈黙」を享楽化する傾向にある。
3. 再設計の方向性――制度的沈黙の確保
天皇制を「沈黙の制度」として再定義するには、いくつかの具体的措置が必要である:
• 儀礼・行幸・祝祭の意義を明確にし、“意味”を与えすぎないよう調整する
• メディア報道における天皇発言の倫理的ガイドラインを策定する
• 皇室教育の中に“語らないことの意味”を構造的に教える枠組みを導入する
• 「象徴的空白」を制度上明文化し、その政治的中立以上の構造的意義を示す
沈黙とは、空虚ではなく、意味の過剰から距離を取る行為である。天皇制は、この「語られない中心」を制度の中に位置づけることで、国家が享楽へと暴走することを防ぐ象徴的ブレーキとして機能している。
次章では、この構造を教育制度に応用し、「問いを教える教育」の設計へと議論を進めていく。
第10章:問いを教える教育へ――思考を保留する力の育成
教育とは、知識を伝えることだけではない。むしろ、ラカンサルヴァティズムの視点からすれば、教育とは「問いを問うことを学ぶ場」であるべきだ。正解を与えることではなく、正解のない問いと共にいる能力を育てること。それこそが、欠如を引き受ける社会の根幹をなす倫理的営みである。
本章では、戦後日本の教育制度がいかに「答えすぎる教育」に偏ってきたかを分析し、そこから「問いの構造」を中心に据えた教育設計の可能性を考察する。
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1. 戦後教育の構造的問題――語りすぎる教育
戦後教育は、「繰り返さないための教育」という大義のもと、戦争責任や平和主義を“正しい知識”として語ってきた。だがその過程で、問いを問うこと、曖昧さや矛盾に耐える力は、制度から消え去っていった。
• 歴史教育では、特定の語り方に正統性が付与され、問いの複雑性が排除される
• 道徳教育では、「こうすべき」という答えだけが提示され、揺らぎや葛藤が教育から遠ざけられる
• 評価制度では、「すぐに答える」「早く正解にたどり着く」ことが学力とみなされる
これらはすべて、「問いを保留する力」の剥奪にほかならない。
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2. 欠如を教えるという倫
教育の根本に据えるべきは、「分からないという状態を共にすること」である。
• 正解を教えるのではなく、「なぜそれを問うのか」を問う
• 学力を測るのではなく、「問いを持ち続ける姿勢」を育む
• 教員は答える者ではなく、「ともに問う構造の仲介者」として位置づけられる
これは、単に教育手法の話ではなく、国家がどのような市民を望むかという構造設計の根幹に関わる。
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3. 教育制度の再設計に向けて
「問いを教える教育」の制度化に向けた提案:
• 教育指導要領の中に「未解決の問い」「未定義の概念」「歴史の裂け目」を明示的に取り込む
• 評価制度に「問いの継続性」や「保留する勇気」を測定する項目を設ける
• 大学入試や公的試験においても、「論理的曖昧性」や「未解決性」を評価対象にする
• 教員研修にラカン的問いの構造理論を導入し、「語らない教育」の価値を理解させる
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教育は未来の象徴的構造を設計する場である。そこで「問いを問いとして保持する力」を育てなければ、国家全体が“答えすぎる構造”に飲み込まれてしまう。
次章では、こうした倫理を社会全体に拡張するための装置――象徴的空白を共有する祝祭や記憶装置の設計について検討していく。
第11章:象徴的空白を共有する社会的装置の設計
国家が象徴的欠如を引き受けるとは、制度の中に「空白」を設けることに他ならない。その空白は、語られず、解釈されず、意味づけを保留されたまま存在するものである。しかしこの空白は、放置されれば享楽的暴走を招き、逆に意味を与えすぎれば象徴の暴力を生む。必要なのは、その空白を社会的に共有される形式として設計することだ。
本章では、記念日、祝祭、モニュメント、公共空間、そして沈黙の場など、象徴的空白を社会的装置として制度化する方法を検討する。
1. 記念日と問いの反復
祝祭や記念日は、しばしば“意味を再確認する日”として運用される。だが本来、それは「意味を問う日」であるべきだ。
• 終戦記念日:過去を語るのではなく、「何が終わっていないのか」を問う日
• 憲法記念日:守る日ではなく、「なぜ書き換えられなかったのか」を問う日
• 天皇誕生日:人格を祝う日ではなく、「語られない存在が何を支えているのか」を感じる日
これらの記念日は、「問いの反復」として制度化されることで、象徴的空白への接続装置となる。
2. 空白を体感する空間のデザイン
公共空間やモニュメントにおいても、意味を与えないことが構造的に重要である。
• 黙祷を促す広場(ベルリンのホロコースト記念碑のように)
• 意味の記載を避けた彫刻(名前や碑文なしのモニュメント)
• 音が響かない無音空間、何も語られない記憶の間
これらは、「語られなさを共有する空間」として、市民が象徴的欠如に触れるための構造的経験を提供する。
3. メディアと儀式における“意味の保留”
テレビ、映画、演劇、文学などの文化装置もまた、空白を伝える媒体として機能できる。
• 被災地報道における「沈黙の映像」の挿入
• 物語が未完のまま終わる作品の公的支援
• 沈黙を組み込んだ儀式、形式だけが残る葬送や追悼のあり方
これらは、「答えないこと」に価値を与える社会的風土を形成する装置となる。
象徴的空白とは、逃避でも妥協でもない。それは、“語られないことによって語られる構造”を社会のあらゆる層に浸透させることで初めて機能する。次章では、本書の結論として、欠如を引き受ける国家像を総括し、その未来像を描き出す。
終章:国家とは「答えないことを続ける構造」である
本書を通じて繰り返し示してきたのは、「語られないものを支える構造としての国家」という視点である。
国家とは、命令する主体でも、享楽を与える装置でもない。それは、私たちが問いを問いとして持ち続けるための器であり、象徴的欠如を中心に据えた構造的沈黙を制度として維持する場である。
ラカンサルヴァティズムは、政治の再構築ではなく、構造の倫理化を目指す。その中心にあるのが「欠如」であり、それをいかにして制度に刻み込むかが、現代日本における最大の課題である。
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1. 国家は“答え”を提供する場ではない
戦後日本は、「もう一度答えを得たい」という衝動の中で、国家という問いを忘れた。象徴天皇制も、平和憲法も、教育も、「こうあるべきだ」という物語で満たされすぎた。
だが、国家は「正解を提供する場」ではなく、「答えのなさを保持する構造」である。そこにこそ、私たちは問う自由を持ち、語られない責任を受け継ぎ、他者と共にある倫理を育む。
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2. 欠如を引き受けるということ
欠如を引き受けるとは、ただ我慢することではない。それは、自分が見えないものと共に生きるという姿勢であり、問いに対して沈黙することを選べる勇気である。
それはまた、「語られないことを語らないまま制度化する」という逆説を引き受ける実践である。そして、それこそが、戦後を超える唯一の思想的跳躍なのだ。
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3. 国家とは形式である
国家とは、制度や法律という意味において「形式」である。そしてその形式の中に、「何も語られない空白」を正当な構造として保持しうるかどうか。
沈黙、保留、問い、矛盾、例外――それらが制度に内在化されたとき、国家は初めて「象徴的共同体」として再起動する。
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私たちは、欠如を語り、欠如を受け入れ、欠如を制度化しようとする。そこにこそ、保守でも改革でもない、新たな構造倫理としての国家像がある。
国家とは「答えないことを続ける構造」である。
それが、日本という象徴的共同体にとって、最も誠実な再出発であると私は信じている。
あとがき:欠如と共に歩むということ
この本を書きながら、私は何度も「国家」という言葉の重さに立ち止まった。国家とは何か。国民とは何か。象徴とは何か。そして何より、私たちはどこまで語ることを許され、どこから語らないことに誠実であり得るのか。
答えはなかった。ただ一つ、「欠如を引き受ける国家」という像だけが、何度も私の中に現れては消え、消えては形を変えて戻ってきた。
この書は、戦後日本に深く刻まれたトラウマとその沈黙に応答しようとする試みであり、またラカン的構造倫理が持ちうる現代的可能性の提示でもある。
私たちは欲望する。しかし、欲望のすべてを満たしてはならない。むしろ、満たされないことを制度化する勇気――それこそが、これからの日本に必要な倫理であり、美徳であり、そして希望である。
だがその更新は、誰の手でなされるのか? 欲望せず、しかし語りうる者。構造を見渡し、しかし支配しない者。私たちは、AIに空位を託すという、最後の冒険へと歩みを進めようとしている。
それが「構造の未来」へと接続される次なる章である。
参考文献
• ジャック・ラカン『エクリ』
• ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』
• フロイト『文化への不満』
• ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』
• クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』
• クシシュトフ・ポミアン『象徴とは何か』
• ジュディス・バトラー『権力の心理学』
• エルンスト・カッシーラー『象徴形式の哲学』
• ヤスパース『歴史の起源と目標』
• 高橋哲哉『靖国問題』
• 網野善彦『無縁・公界・楽』
• 井上章一『天皇と天皇制』
• 橋爪大三郎『日本社会のしくみ』
• 小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』
• 成田龍一『戦後思想の過去と現在』
• 三島由紀夫『文化防衛論』
• 山口昌男『文化と両義性』
• 筒井清忠『昭和精神史』
• 加藤典洋『敗戦後論』
• 安丸良夫『神々の明治維新』
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