序章 言語主義との訣別
数学=言語なのか?それとも、数学≠言語なのか?
この問いは、単なる哲学的遊戯ではない。私たちが「生きること」と「思考すること」をどのように結びつけるか、つまり倫理のあり方そのものに関わる、根本的な問いである。
20世紀以降の数学は、しばしば言語や記号の体系として捉えられてきた。ヒルベルトの形式主義、チューリングとポストによる計算理論、そして現代に至るAIによる記号操作の自動化にいたるまで、「数学=記号操作である」という見方が支配的であった。これはある種の還元主義であり、数学を「操作可能な言語システム」に閉じ込めるものである。
だが、果たして数学とは、それほどまでに言語に還元されるものなのだろうか?
本書は、この言語主義と訣別するための試みである。
言語主義の具体例と、その問題点
形式主義においては、数学は論理的体系の中で公理と規則に従って展開される「言語ゲーム」として定義される。たとえばヒルベルトは、数学の正しさを記号操作の無矛盾性に求め、そこに「意味」を持ち込むことを拒否した。チューリングは、任意の計算をチューリングマシンに還元できると考え、数学を「計算可能性」の枠に押し込めた。さらに現代のAI研究では、「人間の思考もまた記号操作である」という立場が取られ、数学的創造性さえも機械的に模倣できるという前提が暗黙のうちに共有されつつある。
しかしこうした立場には、ある根本的な盲点がある。
それは、「人間がなぜ数学するのか」「数学が生きた思考であるとはどういうことか」という問いを切り捨ててしまっているということだ。
操作主義的な視点は、数学を記号列の変換作業へと矮小化する。その過程で、身体感覚や、直観、そして他者への応答可能性――つまり“倫理的な関係”が完全に抜け落ちてしまう。言語主義は、「数学する主体」そのものを不可視にし、ただ機械的な操作の体系として数学を再構築しようとする。
本書の立場=倫理と計算不可能性の接続
本書が打ち出す立場は、こうした言語主義を乗り越えることである。
私たちが注目すべきは、計算不可能なもの、論理的には完結しないもの、逸脱し、生成しつづける思考の運動である。
その裂け目からこそ、倫理の余白が立ち上がる。
人は計算できないからこそ、迷い、待ち、他者に応答する。
そしてその「応答不可能性に開かれた場」として、数学の営みは再び倫理と結びつくことができる。
本書では、言語主義の問題点をあらためて歴史的・思想的にたどりながら、それに対抗する多様な思想と数学的実践を掘り起こしていく。
第1章では、プラトンから現代に至るまでの「数学と言語」の関係をめぐる議論を概観し、ゲーデル、チューリング、そしてラカンを交差させながら、形式の限界と倫理の起源について考察する。
第2章では、フッサールやブラウワー、リーマン、ベルグソン、グロタンディークら、数学を「生成するもの」として捉えた思想家たちの営みを立体的に読み直し、記号や形式に先立つ「生の思考」の可能性を探る。
第3章では、「計算不可能性」という概念が、倫理と自由意志の哲学にどのような転回をもたらすかを問う。
コルモゴロフ複雑性などの視点を導入しながら、数学と倫理を架橋する。
第4章では、「数学する身体」に注目する。記号の操作としての数学を超え、触れ、迷い、書き、対話するという身体的・関係的な実践としての数学を取り戻す。
そして最終章では、「正しさとは生成されるものである」という立場から、数学の未来像を描き出す。
それは閉じた体系ではなく、他者とともに開かれていく思考の場としての数学である。
言語主義を超えて、数学を生きる。
本書は、そんな思いから生まれた。
第1章 言語主義批判の系譜
――記号と生、形式と倫理のあいだで
「数学は言語である」――この言明には、ある種の魅力と落とし穴が共存している。
魅力とは、数学を普遍的な意味伝達の体系としてとらえることの可能性。
落とし穴とは、数学を単なる記号操作とみなすことで、生の現実から乖離した計算の遊戯にしてしまうことだ。
言語主義の成立と広がり
言語主義とは、数学を一種の記号言語としてとらえ、その意味や真理は記号間の操作規則の中に閉じていると考える立場である。これは20世紀初頭の形式主義(ヒルベルト)や計算理論(チューリング、ポスト)に端を発し、現代のAI・計算主義にも受け継がれている。
この立場では、数学は人間の意識や直観から切り離され、論理記号のゲームとして扱われる。形式主義者たちは、「すべての数学的真理は、有限の規則によって機械的に導出可能だ」と夢見た。
だがそれは、数学を「意味なき形式の空転」に還元し、人間的な経験や倫理的判断から乖離させてしまう危険を孕んでいた。
数学=生の営み、という異議申し立て
この「数学=言語」モデルへの異議は、決して新しいものではない。古くはプラトンにおける数のイデア性、そして19世紀に入ると数学の直観的源泉を重視する声が台頭してくる(たとえばブラウワーやリーマン)。
ここでの対立は、「数学をあらかじめ定まった記号操作とみなすのか」、あるいは「数学的真理が思考と経験の生成の中から立ち現れるのか」という根本的なものだ。
ゲーデルとチューリングが開いた「形式の裂け目」
この対立に決定的な転機をもたらしたのが、ゲーデルの不完全性定理とチューリングの停止問題である。彼らは、いかに形式的な体系が整備されようとも、「語れないもの」「計算できないもの」が必ず残るという構造的限界を明らかにした。
とりわけチューリングの停止問題は、あらゆる数学的命題について、機械的に「真か偽か」を判断することが不可能であることを証明した。つまり、数学的判断のなかには、「判断する主体の倫理的決断」が避けられない局面があるということになる。
このように、「形式」の地平そのものが限界を抱えており、それゆえにこそ、倫理的、存在論的、身体的な契機が浮上してくる。
シミュレーション仮説と倫理の危機
言語主義、あるいはより現代的に言えば「AI計算主義」は、いまや「世界そのものがプログラムである」というシミュレーション仮説にまで行き着いている。
この仮説を受け入れると、人間の意識や倫理、自由意志すら、あらかじめ記述されたプログラムの一部に過ぎないと考えることになる。
だが、もし私たちが計算され尽くす存在であるなら、倫理は不要になる。正しさも誤りも、単なる出力の差異に過ぎない。
それはまさに、「倫理なき世界」、すなわち「倫理不可能性」の地平である。
数学の名において、倫理を立て直す
本書の立場は、このような「計算される数学」への異議申し立てであり、「生成する数学」の擁護である。
数学とは、単なる記号の体系ではない。数学するとは、問い、迷い、手を動かし、他者と語り合いながら、正しさを探し続ける行為である。そこには、計算不可能な余白――つまり、倫理の根源がある。
だからこそ本書は、「数学=言語」ではなく、「数学=生である」という言い直しを提案する。そして、数を生きるとはどういうことか、正しさがどのように生成されるのかを、次章から思想家たちの軌跡を辿りながら探っていこう。
第2章 生成する数学――形式を超える思想たち
「正しさは、あらかじめ存在するのではなく、生成されるのだ」
――この一文を、本章の入口としたい。
数学の正しさが、記号操作の外部で、経験や思考のなかから立ち上がるとすれば、それは何に基づくのだろうか?
ここでは、8人の思想家・数学者の思索をたどりながら、数学の生成性を多角的に照らしてみたい。
フリードリヒ・シェリング —— 自然と思惟の相互生成
シェリングは自然を「死せる機械」としてではなく、生きて活動する有機体的全体性としてとらえた。自然は思惟の対象ではなく、それ自体が思惟を孕んだ存在であるという視点は、数学もまた自然の一生成であるという直観につながる。
彼においては、「自然」が「精神」に先立つものではなく、両者は共に生成される。この動的な関係性は、あらかじめ与えられた形式に還元されない「数学的正しさ」の地平を開く。
エトムント・フッサール —— 構成する意識と現象的経験
フッサールは「現象がいかにして意識に現れるか」という問いを通して、数学の意味はそれを構成する意識の働きに根ざすと説いた。とくに後期フッサールにおいて、数や空間の観念もまた、身体化された経験の流れの中で生成されることが強調される。
ここには、記号に先立つ「意味の地平」があり、数学的構成とはその上に重ね描かれる営みである。フッサールの思考は、後のワイルやブラウワー、そして数学教育における構成主義にも影響を与える。
ヤン・ブラウワー —— 数の直観と排中律の拒否
ブラウワーは「数とは精神の中に生じるもの」であり、「数学とは思考する主体の行為である」と主張した。その立場は、排中律(真か偽か)を拒否する直観主義として展開された。
彼にとって数学の真理は、証明可能性に先立つ形式ではなく、思考の中で具体的に構成されるものだった。この「構成的真理観」は、記号主義とは異なる「生成的正しさ」の最初の輪郭を与えてくれる。
ヘルマン・ワイル —— 現象学と空間の意味
ワイルはフッサールの影響を受けつつ、空間と時間の本質的な意味を問い直した。彼の『連続体』や『幾何学と物理学』は、空間をただの図形的集合ではなく、経験され、構成される連続性としてとらえる試みである。
「空間とはなにか?」という問いを現象学的に捉えることで、ワイルは数学を物理とも哲学とも異なる、第三の営み=存在の問いに対する形式的応答として提示した。
ベルンハルト・リーマン —— 空間の生成性
リーマンは「幾何学的公理とは何か?」という問いから出発し、ユークリッド幾何学を超える「空間の可能性の場」を開いた。彼にとって空間は固定的なものではなく、構造が生成される場である。
リーマン幾何学が後の相対性理論やトポロジーに与えた影響は計り知れないが、ここで注目したいのは、彼の根底にある「空間もまた構成される」という哲学的直観である。これは、「形式を生きる」ことの可能性を示唆している。
アンリ・ベルグソン —— 持続と直観、計算不可能性
ベルグソンは、「時間とは量ではなく質である」と主張し、持続(durée)という概念を提起した。彼にとって、数学的時間は空間的に歪められた人工物であり、生の流れとしての本来の時間は決して数理化できない。
この視点は、計算主義の外部にある「直観的知」の可能性を回復するものであり、計算不可能性=倫理的自由の根源という本書の立場とも深く共鳴する。
ジャン・カヴァイエス —— 概念の歴史と内部生成
カヴァイエスは「数学的概念は思考の外にある対象ではなく、思考の中で生成されるプロセスである」と論じた。彼は、数学の発展を概念の歴史的運動として捉え、その内部から新たな正しさが出現するとした。
彼の思想は、数学史における「生成と断絶」を明らかにし、主体の直観や意思とは異なるかたちで、正しさが育っていく構造を提示している。
アレクサンドル・グロタンディーク —— 抽象化と空間の再創造
グロタンディークは、近代数学を抜本的に変革した抽象空間の創造者である。彼は「点」を捨て、「構造そのものの連関」へと数学を高めた。
注目すべきは、彼がこの抽象化を現実世界との深い共鳴の中で行っていたことである。彼にとって数学は、単なる計算の技法ではなく、世界との新しい出会いのかたちであり、それゆえにこそ倫理と宗教的感性にまで接続された。
結びにかえて
この8名の思想家たちの思索は、それぞれ異なる角度から、数学が形式を超えて生成されるものであるということを教えてくれる。
そして彼らの声が重なるとき、私たちは、「数学すること=正しさを生きること」への確信を強めることができるのだ。
第3章 計算不可能性と倫理
チューリングの停止問題:アルゴリズムの境界線
アラン・チューリングが提示した「停止問題」は、計算理論における根源的な不可能性を明らかにした。
停止問題の定式化:
あるチューリングマシン と入力 に対して、 が停止するか否かを判定するアルゴリズムは存在しない。
この結果は、「任意のアルゴリズムによるシステムには、自らの挙動について判定できない入力が存在する」ことを意味し、
アルゴリズム的決定可能性の限界を数理的に証明した初めての例となる。
この「予測不可能な挙動の存在」は、論理や因果律に閉じられない世界の姿を暗示する。
ゲーデルの不完全性定理:自己言及のパラドクスと体系の外部
ゲーデルは、任意の公理系 (ペアノ算術を含み、整合的かつ再帰的)について、
その体系の中では真偽を判定できない命題が存在することを示した。
例:「この命題は証明できない」
この命題は、証明できれば矛盾、証明できなければ正しいが証明不能。
つまり、体系は自己を完全には記述できないということ。
これにより、形式体系における「正しさ」は常に外部との関係の中で生成されるものとなった。
この「閉じない性質」が、倫理的判断の空間を開く余地になる。
コルモゴロフ複雑性:予測不能性の数理
コルモゴロフ複雑性 は、文字列 を生成する最短のプログラムの長さで定義される。
たとえば、
のように周期性がある列は短く記述できる。
一方で、 が「圧縮できない」列であれば、
これは、任意の列には“意味ある法則性”があるとは限らないことを意味し、
形式的理解やパターン発見が不可能な現象が存在することを証明している。
特に重要なのは:
コルモゴロフ複雑性の定義それ自体が停止問題に依存しており、計算不可能である点。
つまり、意味や規則を発見することそれ自体が「倫理的選択」になりうる。
計算可能性の階層と選択の非可逆性
数学的には、計算可能関数の中にも複雑さのヒエラルキーが存在する。
たとえば:
プライミティブ再帰関数(常に停止する)
μ-再帰関数(停止が保証されない)
そして、非決定性オートマトンやオラクルマシンの導入は、計算可能性の境界を押し広げる試みだった。
それでも、「選択を行う主体」の登場は、形式理論から溢れ出す。
このとき、私たちは「正しさ」の演繹的決定ではなく、行為を通じた応答によって世界に介入する。
倫理=計算できなさを生きること
倫理的判断は、演繹できないがゆえに人間に課される。
数学が「ここから先は機械にできない」と線を引いたとき、そこに人間が立たざるをえない。
- チューリング:すべてを自動化できるわけではない
- ゲーデル:すべてを体系化できるわけではない
- コルモゴロフ:すべてに意味づけがあるわけではない
倫理とは、その「できなさ」を背負う勇気に他ならない。
数学は、万能機械の夢を終わらせた。
だが同時に、「倫理的世界」の始まりを指し示している。
予測できないものを受け入れ、応答する技術としての数学が、ここに立ち上がる。
第4章 数にふれる――思考と身体の対話
記号から触覚へ:数学的行為の身体性
数学は、黒板にチョークで書くこと、ノートに手書きすること、口に出して定理を述べること、そうした具体的な身体の営みのなかで立ち現れる。数式は単なる記号列ではなく、それを書く手や見る目、つまずく足元と共にある。
私たちは「わかった!」という瞬間を、全身で感じる。そこには、知識としての「記号の理解」を超えた、「身体でつかんだ手応え」がある。
- 数を数えること
- 図形をなぞること
- 問題に行き詰まって散歩すること
それらすべてが、数学をする身体の一部である。
触れること・待つこと・迷うこと
数学の思考は、直線的ではない。論理の前に、手探りの時間がある。
「うまくいかない」「意味がつかめない」「どこかに引っかかる」――そうした時間こそが、数学的思考の根幹をなす。
たとえば、「証明」とは「確かさ」ではなく、「確かさをつくりあげていく過程」なのだ。
手で図を描き、「ここが不自然だな」と思う
式を立てて、「何か足りない」と気づく
アイデアを寝かせて、「朝になって腑に落ちる」
それらは身体的な知覚と時間の経験に支えられている。
数学は、思考の運動であると同時に、生きられる時間の運動でもある。
教育・対話・創造としての数学
数学は孤独な営みのように見えて、常に他者との関係のなかで生成される。
教師と生徒のあいだに「伝わらない違和感」が生まれる
問題の見方がずれていて、そこに新しい着眼点が生まれる
記述や証明の表現を「もっと美しく」と思う
そこには、「伝える」「伝わらない」「伝え直す」という対話の循環があり、数学はそのなかで創造される。
数学とは、「正しさの押しつけ」ではなく、「共に考え、手を動かし、わかりあおうとする姿勢」である。
記号でありつつ、記号を超える
数学は記号を使う。しかしそれは、記号に還元されるということとは違う。
記号は、私たちの生のリズムと出会うときに初めて意味を持つ。
書き直された式の行間に込められた「ひらめき」
不器用に描かれた図の中に潜む「直観」
伝えようとしたが伝えきれなかった「あの一瞬」
数学は、形式のなかで生まれる。
だが、形式の外で意味を育む。
数学とは、「記号でありながら、記号を超えて生まれるもの」なのだ。
数学することは、考えることではなく、「生きること」そのものである。
手を動かし、声を出し、誰かとわかりあおうとする——そのすべてが、数学である。
第5章 生成と正しさの未来へ
正しさとは何か?
数学は「正しいもの」の学問とされてきた。定理は証明され、論理は確かで、結論は一意に導かれる――それが伝統的な数学観だ。
しかし、本書で一貫して扱ってきたように、数学とは固定された体系ではなく、生成のプロセスであり、対話と発見の運動でもある。
では、そうした生成的な数学において、「正しさ」とはどのように捉えられるべきだろうか?
形式的正しさの限界
形式主義は、数学的正しさを記号操作の整合性として捉える。
ヒルベルトのプログラムや形式論理学は、この「記号の正しさ」を徹底しようとした。
だが、ゲーデルの不完全性定理が示したのは、どれだけ形式化しても、すべてを証明することはできないという事実だった。
数学は、形式だけでは閉じない。常に「外からの視線」や「新しい概念の導入」によって、拡張されていく。
つまり、正しさとは閉じた系のなかにあるものではなく、開かれた場で生成されるものなのだ。
共有直観と共同体の役割
数学において、ある証明が「正しい」とされる背景には、専門的共同体の合意がある。
この合意は単なる同調ではなく、共有される直観と経験の積み重ねに基づいている。
- 「この証明は美しい」と感じる共感
- 「この定義は妥当だ」と納得する感覚
- 「この計算には意味がある」と信じられる共同性
正しさは、言葉を超えた感覚と、対話を通じた修正可能性のなかで生成される。
それは数学を、「孤立した理性の営み」ではなく、「生きたコミュニケーション」として再定義する視座を与える。
生成的正しさとは
「生成的正しさ」とは、結果の正当性ではなく、プロセスそのものが正しくあることを意味する。
- ある仮説が受け入れられるまでの経緯
- 誤りから学ぶ過程
- 未完成な理解を共有しながら進む対話
そこには、「いま・ここ」において問いを問い続ける態度がある。
そして、この態度こそが、未来の正しさを形づくるのだ。
数学は倫理の地平でありうる
本書を通じて、計算不可能性・生成性・身体性・対話性といった視点から、数学が生きた営みであることを見てきた。
この営みは、閉じられた論理体系にとどまらず、他者とともにあること=倫理の営みへと開かれていく。
数式を通じて他者と語り合うとき
証明の試行錯誤を誰かと共有するとき
思考の迷いに耳を傾けるとき
そこには、ただ「正しいこと」を述べるだけではない、「正しくありたい」と願う人間の姿がある。
数学は、世界を記述する道具であるだけでなく、私たちがどのように世界と関わりたいかを問う営みでもある。
数学とは、正しさを問い、正しさを生きることである。
結論:なぜ言語主義を批判するのか――生成する数学の倫理へ
私たちはなぜ、言語主義を批判するのか?
それは、数学を記号の操作に還元する立場が、人間の営みとしての数学を切り捨ててしまうからである。
言語主義は、形式的正しさ、記号的一貫性、計算可能性のなかに数学の本質を見出そうとする。
それは一見、透明で整然とした世界を描くが、同時に人間の直観、身体、時間、感情といった「生の厚み」を排除してしまう。
だが、本書を通して見てきたように、
数学はけっして「言語の中にとどまるもの」ではない。
むしろ数学とは、言語を突き抜けるものであり、
記号の限界において、思考が揺れ動き、生成し続ける営みである。
私たちは、「証明」ではなく「生成」から出発する。
正しさは与えられるものではなく、共に問うこと、共に生きることのなかで生成されるものである。
だからこそ、数学は倫理に通じる。
他者に対して完全に計算可能な応答など存在しない。
計算不可能性の只中で、私たちは「応答する」ことを引き受けなければならない。
それが、「数学することは、生きることである」という本書の立場である。
記号に閉じない数学。
形式に還元されない正しさ。
計算を超えて現れる倫理。
本書が目指したのは、そのような「生きた数学」の可能性である。
参考文献
序章・第1章:言語主義とその批判
ダフィット・ヒルベルト『数学の基礎』(Hilbert, Foundations of Geometry)
アラン・チューリング「計算可能な数について」(Turing, On Computable Numbers)
エミール・ポスト「形式的体系の限界について」(Post, Finite Combinatory Processes)
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』および『哲学探究』
カール・ポパー『開かれた社会とその敵』
ノーバート・ウィーナー『サイバネティックス』
森田真生『数学する身体』
第2章:生成性をめぐる思想家たち
フリードリヒ・シェリング『同一性哲学体系』
エトムント・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』
L.E.J. ブラウワー『数学の基礎に関する直観主義的見解』
ヘルマン・ワイル『連続性の問題』『現代数学における対称性』
ベルンハルト・リーマン『幾何学の基礎に関する仮説について』
アンリ・ベルクソン『時間と自由意志』『創造的進化』
ジャン・カヴァイエス『数学の形成における哲学的考察』
アレクサンドル・グロタンディーク『リュミエールの追憶』
第3章:計算不可能性と倫理
クルト・ゲーデル『形式的に決定不能な命題について』
アラン・チューリング『計算機械と知性』
アンドレイ・コルモゴロフ「情報理論とランダム性」
Gregory Chaitin, Meta Math! The Quest for Omega
Thomas Metzinger, The Ego Tunnel
杉原厚吉『計算不可能性と人工知能』
第4章:数学する身体
小林道夫『数の身体性』
増田直紀『つながる脳』
Andy Clark, Being There: Putting Brain, Body, and World Together Again
Shaun Gallagher, How the Body Shapes the Mind
杉本亘『教育における「まなざし」としての数学』
第5章:正しさと生成性の未来
トマス・クーン『科学革命の構造』
イアン・ハッキング『科学の社会的構成』
ガストン・バシュラール『科学的精神の形成』
長尾真『知識の創造と構造化』
野家啓一『科学とナラティヴ』
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