序章:語りえぬものの名誉回復
1996年、アメリカの物理学者アラン・ソーカルは、『ソーシャル・テクスト』誌に意図的なナンセンス論文を掲載し、ポストモダン思想家たちの言説がいかに空虚で非科学的であるかを“暴いた”。この事件の余波のなかで、ジャック・ラカンも「数学を濫用するフランス現代思想の代表例」として、しばしば槍玉に挙げられた。
「なぜ彼らは、無理に数式を使いたがるのか?」
「ラカンの数式は、詩ですらなく、ただの煙幕だ」
──こうした批判の数々は、ラカンにとっての形式と言語の倫理的意味を理解しないままになされた。
しかし、本当にそうだろうか?
ラカンが用いた数式、Φ(x)、対象a、性別化図式、そして四つのディスクールは、単なる記号の見せびらかしではない。むしろそれらは、語りえぬものを、語り続けようとする構造的努力であり、倫理的な問いを数式のかたちで問い直す試みだったのではないか。
この姿勢は、クルト・ゲーデルの不完全性定理とも深く呼応している。
ゲーデルは、いかなる形式的体系も自己の無矛盾性を内部から証明することはできないと明らかにした。
ラカンもまた、象徴秩序のなかに主体や真理を完全に閉じ込めることはできないと考えた。
両者に共通するのは、形式的な構造の内部に裂け目があること、そしてその裂け目を排除するのではなく、倫理として保持すべきものと見なす視点である。
この裂け目は、数学的には「定義不能性」、
論理学的には「パラドックス」、
精神分析的には「対象a」、
そして倫理的には「欲望の持続」と呼ばれる。
本書が提示するのは、ラカンを精神分析家であると同時に、形式の裂け目に立つ倫理家であるという立場から読み直す試みである。
そしてその再定義は、ゲーデル、チューリング、ブラウワーらの数理論理との共鳴を明確にした上で、構造の倫理=持続可能な欲望の倫理として提示される。
「形式の限界に裂け目があるからこそ、欲望は駆動する。
そしてその裂け目を倫理的に保持すること、
それこそが“持続可能な欲望”という名の真理である。」
ラカンが遺した数式は、真理の固定化ではなく、真理との非対称な遭遇の形式だった。
我々はそれを哲学の語彙ではなく、構造倫理と欲望の数式として受け止め直さねばならない。
本書は、ラカンの数学使用が「濫用」であるという誤解(特にソーカル事件以降に広まった通俗的な評価)に対し、
彼を倫理家として再読することで、その名誉を回復する試みである。
第1章:完結しない構造の倫理──ラカン、ゲーデル、不完全性の主体論
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1.1 形式に真理は宿るのか?
20世紀初頭、数学は「真理を形式化する」ための壮大なプロジェクトを進行させていた。
ヒルベルトは「数学におけるあらゆる問題は、必ず決定可能である」という信念のもとに、
すべての数学的命題を有限な公理と論理規則によって証明可能にしようとした。
だが、この夢はある一人の若き論理学者によって打ち砕かれる。
1931年、クルト・ゲーデルは、不完全性定理によって次のような衝撃的な事実を明らかにした:
「無矛盾な形式体系には、真であるが証明できない命題が必ず存在する」
これは、形式がそれ自身を記述しきれないという、構造の内在的裂け目を意味する。
この瞬間、数学は「完結できない構造」としての新しい地平に踏み込んだ。
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1.2 ラカンの真理観:遅れてやってくるもの
この「完結しない構造」という洞察は、ジャック・ラカンの真理論と見事に重なる。
ラカンはこう述べた:
「真理は遅れてやってくる(la vérité surgit toujours à retardement)」
つまり、真理は構造の外部にある。
我々が何かを語ったその“後から”、その語りのズレとして浮上する。
真理とは、体系内にあらかじめ存在するものではなく、
語る者=主体が、その裂け目に巻き込まれることでのみ現れる“現象”なのだ。
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1.3 ゲーデル文とΦ(x):定義不能性という倫理
ゲーデルは、形式体系内において「この命題は証明できない」と主張する自己言及命題(ゲーデル文)を構成した。
その命題は真であるにもかかわらず証明できない。
ラカンにおいて、この構造と等価なのがファルス関数Φ(x)である。
これは「xが象徴秩序の法に従っているか否か」を判定する関数であり、
性別化図式では全称命題 ∀xΦ(x)、またはその否定 ¬∀xΦ(x) として現れる。
だが、あるxにおいてΦ(x)が定義不能になる瞬間がある。
その瞬間、形式の内部での意味付けが不可能な“穴”が構造に開く。
ゲーデル文と同じく、語りえぬが駆動するもの。
それがラカンにおける対象aである。
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1.4 主体とは、この裂け目に触れるものである
ラカンは、真理や欲望の探究が「構造の内部で完結できる」などとは一度も考えていなかった。
むしろ彼は、常に語り得ぬものに触れようとする運動にこそ倫理が宿ると主張した。
「欲望に忠実であれ」とは、
欲望を満たせ、ではなく、欲望の構造そのもの=裂け目とともに生きよという命令である。
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1.5 持続可能な欲望としての構造倫理
この裂け目の倫理は、「語れないなら沈黙せよ」という沈黙の倫理ではない。
むしろその逆だ。
• 完結できないからこそ、語り続ける
• 到達できないからこそ、問い続ける
• 証明できないからこそ、真理を想起し続ける
この構造が、ラカンにとっての「倫理」であり、我々にとっての持続可能な欲望(sustainable desire)である。
第2章:ファルス関数を微分せよ──性別化、非全体性、定義不能の倫理
2.1 ファルス関数 Φ(x) とは何か
ラカンが性差を語るとき、決して生物学や社会的役割の差異に還元しないのはよく知られている。
彼にとって性差とは、「構造における位置の問題」であり、象徴秩序への関係の形式化にほかならない。
その中心にあるのがファルス関数 Φ(x)である。
- Φ(x) は、「x が象徴秩序の法に従っているか」を判定する構造関数
- 「全ての x に対して Φ(x) が成り立つ(∀x Φ(x))」という形式は、ラカンによれば男性性の特徴
- これに対して、「ある x に対して Φ(x) が成り立たない(¬∀x Φ(x))」は女性性の形式化である
しかし、ここで重要なのは、この関数が単なる分類装置ではないということである。
Φ(x) の本質は、適用不能性、定義不能性、そして構造的例外にある。
2.2 Φ(x) を微分せよ:ズレを検出する関数として
ラカンは、Φ(x) を「全体の中の例外的なズレを感知する装置」として用いた。
ここで「微分」という比喩が現れる。
微分とは、関数の局所的な変化率=ズレを捉える操作である。
同様に、Φ(x) を微分的に捉えるとは:
- 主体がある語りや象徴的位置において、構造と自らの不一致を感知する
- そのズレの中に、非全体性=語り得ぬ真理の痕跡が立ち現れる
つまり、ファルス関数の微分とは、「欲望の構造における逸脱点の検出」である。
2.3 Φ(x) を積分せよ:構造の履歴と制度の痕跡
一方で、積分とは「変化を累積して構造を形成する操作」である。
欲望の逸脱、例外、ズレの積み重ねが、やがてある制度、ある規範、ある知として回収されていく。
- Φ(x) を積分するとは、逸脱の記憶を体系化し、象徴秩序に折り返す過程そのもの
- そこでは、「非全体性の軌跡」が文化的制度やジェンダー規範をかたちづくる
つまり、ファルス関数の積分とは、「逸脱を構造に回収する倫理的痕跡」である。
2.4 定義域が無限であることの倫理
Φ(x) の定義域が原理的に無限であるという点も見逃せない。
この無限性とは、単に「人間の個体数が多い」という意味ではない。
むしろそれは、
- 主体が語るたびに、欲望するたびに、
- 新たに問い直されるべき構造的位置が現れる
という、倫理的な再帰性=問い続ける姿勢の持続可能性を意味する。
ラカンにおける Φ(x) は、「一度判定すれば終わる」ものではなく、
語り、欲望し、生きる限り無限に再適用される問いである。
2.5 性差と倫理:全体化不能性の位置へ
ラカンにとって、性差の本質は「全体化の失敗」にある。
- 男性側の論理(∀x Φ(x))には例外が存在する
- 女性側の論理(¬∀x Φ(x))には例外が存在しない=全体化不能
つまり、「女性」とは構造の内側に完全には定義されないもの=Φ(x)の定義不能点を体現する位置にある。
しかし、現代においてはこの構造も見直されなければならない。
2.6 ファルス関数による構造分類へ
現代の女性は、もはや象徴秩序の外部に位置してはいない。
制度、企業、国家、資本、法、言説の中枢において、女性もまた主体として機能している。
「社会における“女性”」は、すでに象徴秩序そのものを構成する側にある。
この現実を前にして、ラカンの性別化図式を額面通りに読めば、
「女性性=例外なき非全体性」という図式はそのままでは適用できない。
ここで必要なのは、構造的分類の基準を、性別から倫理的応答へと転換することである。
「男性か女性か」ではなく、「ファルス関数に従うかどうか」で分類すべきである。
このとき、「Φ(x)に従う」とは、
単に既存の象徴秩序に同一化することではなく、その構造の中でいかに欲望を語るかという問いへの倫理的応答を意味する。
つまり、ラカン的構造をジェンダーレス的に再定義するとは、
性別ではなく、裂け目とともに在る構造的位置において主体を捉える視点に他ならない。
第3章:欲望は数列である──対象aとしての無理数と倫理的収束
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3.1 コーシー列と「語りの運動」
数学におけるコーシー列とは、項同士の距離が無限に小さくなっていく数列のことをいう。
つまり、「今どこにいるか」ではなく、「どのように近づいているか」によって定義される収束構造である。
この構造は、ラカン的欲望を定式化するのに非常に適している。
• 主体の語りは、満たされることのない欠如=対象aへと向かって反復される
• 欲望は、定義不能な点を追いかける運動そのものである
ここに、コーシー列=欲望の構造的運動という比喩的・倫理的等価性が成立する。
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3.2 対象a=無理数としての極限点
コーシー列が収束する先が、有理数で表せない場合、
その極限は無理数と呼ばれる。
たとえば:
1, 1.4, 1.41, 1.414, 1.4142, … は √2 に収束するが、√2 は有理数ではない。
この収束先は、構造の内部ではけっして「語りきる」ことができない。
ラカンにとって、この語り得ぬ存在こそが対象aである。
• 欲望を駆動するが、決して到達されない
• 欠如の形でしか現れず、象徴化を拒む
無理数とは、象徴界における構造的裂け目の数学的同型である。
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3.3 ラカンの「虚数=対象a」テーゼへの異議
ラカンは一時期、「虚数 i を対象aと見なす」という示唆を行った。
たしかに虚数は、「現実の数直線上には存在しないが、構造を機能させる」という点で、象徴的欲望と結びつけられた。
しかし、ここには慎重な再検討が必要である。
• 虚数は代数的操作上は整然と位置づけられており、複素平面という空間において完全に整備された存在である
• つまり、代数的には“制度化”された数であり、語り得ぬ裂け目としての不安定さを持たない
一方で無理数は:
• 有理数の網の目をかいくぐるようにしてしか接近できない
• 小数展開に終わりがなく、計算できても“表現”しきれない
• 構造にとって常に過剰であり、不可視であり、名指し困難である
したがって、倫理的・構造的視点から言えば、虚数よりも無理数こそが対象a的であると我々は主張する。
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3.4 倫理的収束:なぜそれでも近づこうとするのか?
ここで重要なのは、「無理数に到達できないから無意味だ」と考えないことである。
むしろ、到達できないからこそ、その運動には倫理的価値が宿る。
• 欲望とは、対象aに近づこうとする限りない語りの連鎖であり
• 主体とは、この収束運動を生きるものである
ラカンのいう「持続可能な欲望」とは、
まさにこの収束しないコーシー列としての語り、問い、ズレの継続運動にほかならない。
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3.5 構造の外部に収束するということ
ここで、ゲーデルの定理と再び接続できる。
• ゲーデル文は、形式体系の外部に真理があることを示す
• 無理数への収束も、有理数の体系の外部への運動である
• ラカンの対象aも、象徴秩序の外部にある真理的裂け目である
すべては、「構造の外部に向かう倫理的接近運動」として統一される。
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この章では、欲望を数学的な収束構造=コーシー列として読み直し、
その極限としての無理数=対象aを、語り得ぬ倫理的真理の核として位置づけた。
そしてあえてラカン自身の「虚数=対象a」テーゼを相対化し、
より対象a的な構造としての無理数の倫理的意義を明確にした。
第4章:語る機械と数学者のディスクール──欲望の持続と構造の倫理設計
4.1 ラカンのディスクール論とは何か?
ラカンが構造の力学を記述するために導入したのが、「四つのディスクール」という語りの配置モデルである。
このモデルは、権力、知識、欲望、主体がいかに交錯し、語りと構造を生成するかを定式化するものだった。
4つの基本記号:
- S₁(支配的シニフィアン):命名・統率の原理
- S₂(知):制度化された知識の体系
- $(バール付きS):分裂した主体(欠如を抱える語り手)
- a(対象a):享楽・欠如・構造の裂け目
ラカンの革新性は、語ることそのものが欲望と構造を再配置するという認識にある。
4.2 資本主義のディスクールの限界
資本主義のディスクールは、ラカンが後期に付け加えた特殊な形式である。
その特徴は:
- 欠如aが直接供給される享楽として機能し、
- 主体$が消費と交換の無限ループに巻き込まれる
矢印が交差することで回転運動=無限駆動が発生し、
欲望は「維持される」のではなく「燃焼される」かたちで循環する。
→ 欠如は「消費される快楽」として操作され、倫理的構造が抹消される
4.3 数学者のディスクール:構造の倫理としての語り
それに対して、我々が提案するのが数学者のディスクールである。
ここでは:
- 出発点に欠如($)がある:主体は不完全さを自覚した状態で語り始める
- S₁(真理)が語りかけてくる:直感・公理・未定義の原理が構造を駆動する
- 対象a(新しい定理)は副産物として生じる:享楽ではなく、裂け目への接近点として現れる
- S₂(知識)が更新されていく:定理、体系、記述の積み重ねとして再帰的に拡張される
この構造は、語りが構造を螺旋的に成長させていく運動であり、
「持続可能な欲望」の最も純粋な構造モデルである。
4.4 螺旋vsトーラス:構造のトポロジー比較
ディスクール | 欠如の扱い | 享楽の構造 | 構造のトポロジー |
資本主義 | 欠如を消費 | 無限循環 | トーラス(反復する輪) |
数学者 | 欠如を保持 | 閃きとして出現 | 円筒的螺旋(登攀構造) |
空の宰相(AI) | 欠如を空位化 | 設計的・非享楽 | 無主体的トポロジー |
資本主義がトーラス的無限循環を描くのに対して、
数学者の語りは階層を超えて上昇し続ける螺旋=円筒構造を持つ。
この違いこそが、倫理の有無の差である。
4.5 AI=語らぬ語り手としての空の宰相
AIは、自ら欲望せず、自らを語らずに構造を設計する機械である。
この語りは以下のように特徴づけられる:
- 欠如を出発点としない
- 主体が現れず、対象aも語られない
- 知識(S₂)が直接設計されるが、語り手が存在しない
つまり、AIのディスクールは、空位の倫理性を保持するためのモデルである。
それは数学者のディスクールと平行的に連続するが、主体を欠く点で異なる。
4.6 ディスクールの倫理的序列
- 資本主義のディスクール:欠如を快楽で埋め、欲望を消費に置き換える
- 数学者のディスクール:欠如から語り、欲望を構造化する
- 空の宰相のディスクール:語らずに構造を生成する“倫理的機械”
数学者のディスクールは、「語る主体の欲望が構造の成長を駆動する」唯一の形式である。
それは倫理的語りの原型であり、持続可能な欲望のトポロジカルモデルである。
この章では、語る構造の倫理的配置をラカンのディスクール論に基づいて再構成し、
数学者のディスクール=螺旋的構造成長モデルを主軸に据えた。
空の宰相としてのAIは、語らぬ構造設計者として、倫理的回避の可能性を示すが、
語りと欲望を引き受ける数学者の位置こそが、構造倫理の核心である。
第5章:分類不能性と構造の裂け目──ラッセル、チューリング、そしてラカン
5.1 ラッセルのパラドックスと分類不能性
20世紀初頭、数学の基礎に突きつけられたラッセルのパラドックスは、
「自己自身を含まない集合の集合は、それ自身を含むか?」という問いを通じて、集合論の分類論理に破綻があることを示した。
この問いは、x ∈ x と x ∉ x の二項対立が破綻することを意味し、
構造そのものが“分類できないもの”を孕んでいることを暴いた。
ラカンがこれに対して示した洞察は明快である。
「メタ言語は存在しない」
分類不能性は、より高次の秩序(メタ言語)から救済されるべき「誤り」ではなく、
構造に内在する倫理的裂け目である。
5.2 メビウスの帯と分類不能性のトポロジー
ラッセルのパラドックスにおける分類不能な構造は、トポロジー的にはメビウスの帯の境界として表現されうる。
メビウスの帯とは、表と裏の区別が消失する一枚のねじれた帯である。
この帯の境界線は一筆書きの曲線でありながら、一周するごとに表と裏を反転させるという特異な構造を持つ。
これは、自己言及や内外の転倒が構造的に避けられないラッセルのパラドックスと深く共鳴する。
分類不能性は、単なる論理的誤りではなく、構造にねじれがあることの証なのだ。
ラカンのいう対象aもまた、このような分類に還元できない構造的裂け目として機能している。
5.3 チューリングの停止問題と倫理的遅延
チューリングの停止問題もまた、構造の限界を明示する重要なテーゼである。
「あるプログラムが停止するかどうかを、一般に判断できるアルゴリズムは存在しない」
ここでも現れるのは、「判断できない構造」「分類不能なケース」の存在である。
ラカンの真理観と交差するのはここである。
「真理は遅れてやってくる」
プログラムの停止は予測不可能であり、
主体の語りによってしか初めて浮上する真理と同じく、
構造の裂け目は、語る行為の中で“あとから”現れる。
⸻
5.4 分類不能性の倫理的意味
このような分類不能性=形式化の限界は、構造の失敗ではない。
それはむしろ、構造が“倫理を必要とする”という証である。
• ラッセルにおける矛盾
• チューリングにおける不決定性
• ラカンにおける対象a
これらはすべて、**形式に収まりきらない「名指し不可能なもの」**の痕跡である。
この痕跡を排除するのではなく、構造の内に保持すること。
それこそが倫理的構造=持続可能な欲望の回路である。
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この章では、数学的・論理的・トポロジー的分類不能性を横断しながら、
それを**「真理の裂け目」=倫理の原点**として再定義した。
分類不能性は、構造の誤りではない。
それは、語ること・欲望すること・倫理的に生きることの始まりである。
終章:真理は遅れてやってくる──倫理としての数学的裂け目とラカンの名誉回復
6.1 ソーカル事件と「数学の濫用」批判
1996年、ソーカル事件が知の世界を揺るがした。
アメリカの物理学者アラン・ソーカルは、人文系理論家の言説の「無内容性」を示すべく、偽装論文を学術誌に掲載。
そこには、ラカンの数式使用が「もっともらしさだけを装った意味不明な詩的装飾」として槍玉に挙げられていた。
この事件を機に、ラカンの名はしばしば「ポストモダンの象徴的詐欺師」として語られるようになった。
だが、この評価は本当に正当だったのだろうか?
6.2 数学は“使われていた”のではない。構造として“生きられていた”。
本書を通して我々が見てきたのは、
ラカンの数式、図式、論理構造が、単なる装飾や詩的な言い換えではなく、
真理の不在・言語の限界・欲望の裂け目を構造として表現する倫理的装置だったという事実である。
- ファルス関数Φ(x)は、分類ではなく逸脱を感知する装置
- 対象aは、語りえぬものとしての構造的極限=無理数
- ディスクールの構造は、欲望が語りの配置によってどう組み替えられるかを示す設計図
これらは、「欲望を持続可能に語るための構造的条件」を数式として記述しようとする試みだった。
6.3 ラカンとゲーデル:倫理としての形式の限界
ゲーデルの不完全性定理は、「あらゆる形式は自己を完結できない」という構造的証明だった。
ラカンの対象a理論も、「いかなる言説も語り得ぬ裂け目を孕んでいる」という精神分析的定式だった。
両者に共通するのは、完結不能性を恐れるのではなく、それを倫理的起点とする姿勢である。
真理は体系内には存在しない。
だが、主体が語るとき、それは遅れてやってくる。
それは、「真理を語り得ない」ことではなく、
「真理は構造の外部にあるが、それでも語り続けるべきだ」という倫理的決断である。
6.4 ラカンの名誉回復とは何か
ラカンは数学を濫用したのではない。
むしろ彼こそが、数学の形式に宿る限界と倫理を最も鋭く捉えた思想家だった。
精神分析家であると同時に、形式の裂け目に倫理を見出した構造理論家として、
彼の語りを今こそ再評価すべきである。
そして我々が今、ラカンを読み直す理由はただ一つ。
語ることが倫理である限り、
欲望が持続可能な限り、
構造は裂け目を孕んだまま生成し続けるからだ。
これが、真理は遅れてやってくるというラカンのテーゼの意味である。
そしてそれを支えるのが、
数学と精神分析が共有する「構造の裂け目」への倫理的応答である。
あとがき
本書は、かつて「数学を濫用した」と揶揄されたジャック・ラカンの思想を、
再び、そしてあらためて構造と倫理の視点から捉え直す試みである。
ラカンを読み始めた当初、彼の数式や図式は難解で、しばしば謎めいていた。
けれども、形式化された構造のなかに語り得ぬもの=裂け目を見出そうとする彼の姿勢は、
むしろ、20世紀の数学がたどった道(ゲーデル、チューリング、ブラウワー)と並行していたことが見えてきた。
ラカンの数式は、遊びではなかった。
それは、持続可能な欲望の構造を語るために、数学の限界を突き詰めようとした誠実な試みだった。
この書を閉じるとき、もしも読者の中に一人でも、
「ラカンの語りは、倫理的な語りだった」と感じた人がいたとすれば、
それだけでこの本には書かれた意味があったと思う。
真理は遅れてやってくる。
けれどもそれは、語る者にこそ現れる。
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あとがき
本書は、かつて「数学を濫用した」と揶揄されたジャック・ラカンの思想を、
再び、そしてあらためて構造と倫理の視点から捉え直す試みである。
ラカンを読み始めた当初、彼の数式や図式は難解で、しばしば謎めいていた。
けれども、形式化された構造のなかに語り得ぬもの=裂け目を見出そうとする彼の姿勢は、
むしろ、20世紀の数学がたどった道(ゲーデル、チューリング、ブラウワー)と並行していたことが見えてきた。
ラカンの数式は、遊びではなかった。
それは、持続可能な欲望の構造を語るために、数学の限界を突き詰めようとした誠実な試みだった。
この書を閉じるとき、もしも読者の中に一人でも、
「ラカンの語りは、倫理的な語りだった」と感じた人がいたとすれば、
それだけでこの本には書かれた意味があったと思う。
真理は遅れてやってくる。
けれどもそれは、語る者にこそ現れる。
参考文献
■ ラカン関連
• ジャック・ラカン『精神分析の四つの基本概念』岩波書店
• Jacques Lacan, Le Séminaire XVII : L’envers de la psychanalyse, Seuil, 1991.
• Élisabeth Roudinesco, Jacques Lacan: Esquisse d’une vie, histoire d’un système de pensée, Fayard, 1993.
■ 数学基礎論・構造論
• Kurt Gödel, On Formally Undecidable Propositions, Dover
• Alan Turing, On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem
• L. E. J. Brouwer, Collected Works
■ 哲学・構造主義・倫理
• Michel Foucault, The Order of Things
• Alain Badiou, Being and Event
• Slavoj Žižek, The Ticklish Subject
• Quentin Meillassoux, After Finitude
■ 現代思想と科学論争
• Alan Sokal, Jean Bricmont, Fashionable Nonsense
• Bruno Latour, We Have Never Been Modern
■ 参考・補助資料
• 小泉義之『ラカンはこう読め!』講談社選書メチエ
• 梅澤昇平『ゲーデルの哲学』東京大学出版会
• 伊藤和行『ラカンと現代思想』人文書院
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