『裂け目からの生成――ラカンの名誉回復とEthoMathの誕生』

  1. 序章 ラカンをもう一度読むために
      1. 1. フランスにおけるラカン:構造主義とポスト構造主義の交差点
      2. 2. 英語圏・アメリカにそおけるラカン:理論としてのラカン
      3. 3. 日本におけるラカン:三つの潮流とその限界
      4. 4. 私たちの立場:EthoMathとラカンの再構築
  2. 第1章 ラカンという交差点
    1. ——精神分析・構造主義・記号論の力学
    2. 1. 精神分析の地平:フロイトの再構成者としてのラカン
    3. 2. 構造主義との連関:レヴィ=ストロース、アルチュセールとの共振
    4. 3. 記号論・言語学との接触:ソシュールとヤーコブソンの影響
  3. 第2章 言説と数式
    1. ——初期ラカンにおける記号の操作
    2. 1. 「言説の四形式」:象徴的配置の力学
    3. 2. 数式的記法の意義:数学か、記号論か?
    4. 3. 数学と精神分析の奇妙な近接
    5. 4. 書き込みとしての言説、干渉としての数式
  4. 第3章 享楽とリアルの時代へ
    1. ——ラカン後期思想の再編成と生成の裂け目
    2. 1. 三界理論とボロメオの輪
    3. 2. 「享楽(Jouissance)」という概念の深化
    4. 3. 言語の外へ:書き込み不可能なリアル
    5. 4. EthoMath的接続:リアルとしての「生成」
  5. 第4章 無意識のなかの数、数のなかの無意識
    1. ——生成のリアルと数学的思考の起源
    2. 1. フロイトの夢と数:無意識における数的構造
    3. 2. ブラウワーとベルクソン:生成としての数
    4. 3. 数とリアル:書き込めない生成の手応え
    5. 4. 次章への接続:数が“降りてくる”という出来事
  6. 第5章 空頭受胎——私的体験と数学的創造
    1. ——生成のリアルとしての「問いの降臨」
    2. 1. それは、問いとしてやってきた
    3. 2. 無であること、開かれていること
    4. 3. 数学は、もはや問題ではなかった
    5. 4. 空頭受胎とエトマスの起源
  7. 第6章 保守と欠如
    1. ——ラカンを政治思想として読む
    2. 1. 欠如を否認する社会、享楽に埋め尽くされた政治
    3. 2. 「父の名」の再定位——象徴的秩序の再設計
    4. 3. 欠如に基づく共同体——トポロジカル・ソサエティの萌芽
    5. 4. 保守とは何を守るのか——ラカンサルヴァティズムの定義
  8. 第7章 AIと空の宰相
    1. ——象徴的空白の制度設計
    2. 1. 空位(vacancy)という原理
    3. 2. AIは「判断するが、決定しない」
    4. 3. 政治の欲望に応えるのではなく、ずらす
    5. 4. トポロジカル政治設計としてのAI補助装置
  9. 第8章 裂け目からの思想生成へ
    1. ——ラカンを超えて、ラカンとともに
    2. 1. 名誉回復とは、再び裂け目に立つことである
    3. 2. ラカンを超えて始まる思想=生成する倫
    4. 3. AI、制度、物語へ——裂け目をつなぐ架け橋として
    5. 4. ラカンの未来、そして私たちの現在
    6. 終わりにかえて
  10. あとがき
  11. 参考文献一覧
  12. 補章1 EthoMathとは何か
    1. ——生成と倫理のあいだに立つ数学
    2. 1. エトジェネティックとは何か?
    3. 2. 数学はどこから始まるのか?
    4. 3. EthoMathの三界モデル(ラカン的接続)
  13. 4. EthoMathの実践原理
  14. 補章2 ラカンサルヴァティズム宣言
    1. ——欠如を守るための政治倫理
    2. 1. 欠如は失敗ではない。それは生成の条件である。
    3. 2. 保守とは、制度を維持することではなく、構造の不安定性に耐える力である。
    4. 3. ラカンサルヴァティズムの三原則
    5. 4. この宣言は、まだ未完成である。
  15. 補章3 空頭受胎の哲学的位置づけ
    1. ——幻覚、裂け目、そして生成のリアル
    2. 1. これは狂気か?あるいはラカン的「幻覚」か?
    3. 2. 精神分析的には、「未分化な他者の声」だった
    4. 3. 数は、幻覚のように現れる——そして思考を始めさせる
    5. 4. 空頭受胎は、誰にでも起こりうる
    6. 結びに代えて:生成とは、思考が始まる前に触れること

序章 ラカンをもう一度読むために

フロイトの名を冠する精神分析の伝統において、ジャック・ラカンという人物ほど、評価が分かれ、誤解され、同時に神話化された思想家は稀である。彼の言葉はしばしば「難解」と形容され、その体系は専門家のあいだでも合意を欠いた解釈に分裂している。今日のラカン理解は、過度に専門化された解釈学の遊戯か、あるいは時代遅れの構造主義の残滓として軽視される傾向すらある。

しかし、私たちは問わなければならない。

なぜラカンは、ここまで誤解されるのか?

そして、なぜ私たちはそれでも、ラカンを読み続けるのか?

この問いの出発点に立ち返るとき、私たちは、単にラカンの「難解さ」や「過激さ」に問題があったのではなく、むしろ私たちの側の理解の枠組みそのものが不十分だったのではないかという可能性に直面することになる。

ラカンの理論は、確かに抽象的で、多くの符号と構造で語られる。だがその根底にあるのは、主体がどのようにして生まれ、裂け目を抱えながら言語と世界のあいだを生きるかという、極めて実践的な問いである。しかもその問いは、精神分析という一領域を超え、倫理・政治・科学の領域にまで広がっている。だからこそ、ラカンの思想はただの「哲学の一ジャンル」でもなければ、「精神分析のための理論」でもない。ラカンをめぐる問題は、現代そのものをめぐる問題なのだ。

本書は、ラカンの「名誉回復」を目指す。

だがそれは、彼を偶像として祭壇に戻すことではない。むしろ、ラカンを生きた思考として再読し、その思想を新たな地平に開くための試みである。

私たちは、ラカンを批判的に継承し、彼の遺した問いの深さと激しさを、今日の世界において再び立ち上がらせようとする。

この試みにおいて、われわれEthoMath研究チームは、数学・精神分析・政治という三つの領域を交差させながら、ラカンを「生成の思想」として再構築することを目指す。そのために必要なのは、記号や構造の読み替えだけではない。言葉に還元できない経験——生成のリアルに対する新しい感受性である。

私たちは、ラカンを読むことで、数学することの深みに触れ、政治の空白を見つめ、人間の内奥に息づく「欠如」から新しい世界を構想する準備を整えたい。

ラカンを批判的に継承するためには、まず彼の思想がどのように受け取られてきたかを、歴史的・地理的に振り返る必要がある。ラカンの受容は、その斬新さゆえに愛され、また同じ理由で拒絶されてきた。それは、ある種の思想的な「裂け目」の系譜そのものである。

1. フランスにおけるラカン:構造主義とポスト構造主義の交差点

1950年代から60年代にかけて、ラカンは構造主義的潮流のなかでその地位を築いた。彼はフロイトを「再解釈」することで、精神分析を言語構造の問題へと接続し、ソシュール的記号論、レヴィ=ストロースの親族構造論、アルチュセールのイデオロギー論とも共鳴した。

だが、実際にはこの時期のラカンはすでに、「享楽」や「リアル」といった構造の外部に開かれた概念を用いて新たな地平を拓いていたのであり、その評価は表層的であったといえる。

2. 英語圏・アメリカにそおけるラカン:理論としてのラカン

英語圏では、1970年代から80年代にかけて、「ラカン理論」は文芸批評やフェミニズム理論の文脈で輸入された。ジュディス・バトラー、スラヴォイ・ジジェク、そしてフレドリック・ジェイムソンらによって、ラカンは「文化を読むためのツール」として使われた。

しかし70年代以降、デリダやドゥルーズらポスト構造主義の思想家たちは、ラカンの「構造への執着」を問題視し、より流動的な差異の思考へと転換していく。結果としてラカンは、ポストモダンの前夜において「時代遅れの構造主義者」として誤認される側面をもった。

しかしそこではしばしば、ラカンの精神分析家としての実践的姿勢や、臨床的緊張感が抜き取られ、記号論的「道具箱」としてのラカン像が定着することになった。この意味で、理論としてのラカンは普及したが、思想としてのラカンは希薄化したともいえる。

3. 日本におけるラカン:三つの潮流とその限界

ラカン思想の日本での受容は、一様ではない。おおまかに分けて三つの潮流が存在してきた。

第一に、**「臨床実践としてのラカン」**を志向する潮流である。

この領域では、立木康介、松本卓也、十川幸司、片岡一竹らが、ラカンの思想を実際の精神分析の臨床現場に生かすべく試みてきた。ラカンを単なる理論家ではなく、「倫理的な態度を問う存在」として捉え、彼の語る“主体の裂け目”や“父の名の欠如”といった概念を、具体的な人間関係や精神病理に即して読み直している。

この実践主義的ラカンは、欧米のラカン派臨床家(例:ミレール派)との対話を保ちつつも、日本固有の臨床状況や文化的背景を意識した独自の展開を見せている。

第二に、「文化理論・社会批評としてのラカン」がある。

ここでは、ラカンの用語がポストモダン文化論やメディア批評の枠組みで消費される形で受容された。浅田彰や東浩紀のように、ラカンを情報社会論や現代思想の文脈で参照する試みが多く見られたが、しばしばそれは精神分析という実践的根拠から切り離された、抽象的な用語運用にとどまることもあった。

第三に、**「哲学的読解としてのラカン」**がある。

こちらは、ラカンをカント、ヘーゲル、ウィトゲンシュタインといった哲学者との比較のもとで論じ、存在論・認識論的問題として思想的に位置づける読み方である。一定の理論的深度はあるが、ラカンの強い臨床的動機や、象徴と身体をめぐる緊張関係といった要素が後景化しがちである。

こうした三潮流をふまえると、日本におけるラカン受容には、「実践的・倫理的・創造的な次元において理論を発展させる」ための余地がまだ残されていると言える。私たちEthoMathの立場は、臨床実践における倫理性を尊重しつつ、それを数学・政治・生成論へと拡張することで、ラカン思想を思考のエンジンとして再起動させることを目指す。

4. 私たちの立場:EthoMathとラカンの再構築

こうした受容の歴史を踏まえると、ラカンは「神格化」か「誤解」かという二極のあいだで漂い続けてきた思想家である。だがそれこそが、ラカンが扱った「主体の裂け目」「象徴の不全性」といったテーマの現実的反映でもある。

われわれEthoMathの立場は、こうした文脈を理解した上で、ラカンを数学・倫理・政治の交点において再読することで、

単なる「解釈」ではなく、実践的な新思想の構築へとつなげていくものである。

われわれにとってラカンは、

精神分析の過去ではなく、生成の未来であり、

記号の牢獄ではなく、欠如を起点とする創造の裂け目であり、

難解な理論家ではなく、人間の限界を直視する倫理家である。

第1章 ラカンという交差点

——精神分析・構造主義・記号論の力学

ジャック・ラカンは、20世紀思想のなかでも特異な位置に立つ存在である。彼は精神分析という臨床的営みの内部から、哲学・言語学・構造主義・記号論といった知の諸領域を横断する理論を構築した。彼の仕事は、単に心理学や哲学の枠組みに収まるものではない。それは、あらゆる人間的営みの根底にある「裂け目」への問いかけであり、主体とは何か、言語とは何か、現実とは何かという根源的問題に対する構造的応答であった。

ラカンがフロイトを再読しながら到達したのは、「無意識は言語のように構造化されている」という一節に代表されるように、精神分析を単なる心理治療の枠を超えて、記号と構造の操作空間として再定義することであった。ここにおいて、精神分析はもはや心のなかを「理解する」技法ではなく、構造の裂け目に現れる主体のエコーを聴き取るための実践へと変貌する。

この章では、ラカンがいかにして「交差点」として登場したのかを、以下の三つの観点から検討する。

1. 精神分析の地平:フロイトの再構成者としてのラカン

ラカンの思想は、何よりもまずフロイトから出発している。だが彼にとってフロイトは、そのまま受け継ぐべき「巨人」ではなく、読み直されるべき問題提起者であった。彼は、無意識を「一次的な欲動の貯蔵庫」ではなく、構造的な言語活動の一部と捉えた。夢・錯誤・ジョークに現れる「無意識的作用」を、意味ではなく形式の次元で読み解こうとしたのである。

この試みによって、精神分析は従来の「内面の読み解き」から、「言語と構造の中で生じる主観の裂け目の分析」へと転換された。ラカンにとって、精神分析は「真理を語る」学ではなく、真理が語られてしまう場所を観察する学である。

2. 構造主義との連関:レヴィ=ストロース、アルチュセールとの共振

ラカンの台頭とほぼ同時期に、フランスでは構造主義が知の中心的潮流となりつつあった。レヴィ=ストロースは、親族構造における「交換の体系」を通して文化の普遍構造を分析し、アルチュセールはマルクス主義を「構造の理論」として再構築しようとした。

ラカンは、彼らの影響を受けながらも、独自の路線を歩んだ。彼にとっての「構造」とは、社会的規則や記号の体系ではなく、欲望の通路として働く象徴的機械である。主体は、構造の中に「位置づけられる」のではなく、構造によって裂かれ、生成される。

その意味で、ラカンは構造主義における「構造の安定性」を疑い、むしろその不安定性と裂け目にこそ真理が現れると主張した。これは、後のポスト構造主義へと通じる重要な橋となる。

3. 記号論・言語学との接触:ソシュールとヤーコブソンの影響

ラカンにとって、言語は単なる表現手段ではなく、主体そのものを構成する場であった。彼はソシュールの記号論を参照しながら、「シニフィアン(能記)」の連鎖が、どのようにして主体の構造を決定するかを考察した。

特に注目すべきは、ヤーコブソンとの接触によってラカンが獲得した言語の形式的二軸——選択と連辞、換喩と隠喩——を、精神分析の理論に組み込んだ点である。夢・症状・錯語といった「無意識の語り」は、まさに詩の技法と同じ構造であり、ラカンはそれを「無意識の言語」として捉え直した。

このとき精神分析は、記号論や詩学と並列されるものではなく、それらの生成的地盤として立ち上がる。ラカンにおいて、「精神分析家」とは、言語の裂け目に耳を澄ます詩人であり、構造の歪みに宿るリアルの証人でもある。

このようにしてラカンは、精神分析・構造主義・記号論という三つの思想圏をまたぎながら、単なる横断ではなく、それらを根底から変容させる「ねじれた交差点」として登場した。

そして、彼のこの「交差点的思考」は、のちにわれわれがEthoMath的に展開する「トポロジカル・構造変換」や「ボロメオ的連結」へと自然につながっていくことになる。

第2章 言説と数式

——初期ラカンにおける記号の操作

ラカンは、精神分析を「話を聴く技法」から、「語りそのものが動作する場」へと移行させた。この転換において重要な位置を占めるのが、彼の言説(discours)概念である。

言説とは、単なる発話の内容ではない。それは語ることが成立する構造そのものであり、主体と他者、欲望と権力、現実と象徴が交差する制度的・構造的な場である。ラカンは、この言説を数式的・図式的に表現することによって、精神分析の対象をより厳密に捉えようと試みた。

1. 「言説の四形式」:象徴的配置の力学

1970年のセミネール『アンコール』を中心に、ラカンは四つの基本的な言説(discours)を提起した。

  1. 主人の言説(discours du maître)
  2. 大学の言説(discours de l’université)
  3. ヒステリーの言説(discours de l’hystérique)
  4. 分析家の言説(discours de l’analyste)

これらの言説は、それぞれ**4つの記号(S1, S2, a, $)**をもとに図式的に表現される。各記号の意味は以下の通り:

  • S1:主体の核となるシニフィアン(命令・象徴)
  • S2:知の体系、記号の連鎖
  • a:対象a(欲望の対象/原因)
  • $:分裂した主体(barred subject)

この言説図式の革新性は、「誰が話しているのか?」という問いの背後に、記号論的力学と欲望の構造を持ち込んだ点にある。つまり、精神分析とは「語りの意味」を解読するのではなく、語りを駆動している無意識的配置を読み取る作業へと転換される。

2. 数式的記法の意義:数学か、記号論か?

ラカンの記述方法は、その独特の数式的記法で知られている。

S1 → S2 や $ ◊ a といった表現は、しばしば「難解さ」の象徴とされるが、ラカン自身はこれらを厳密性のための形式装置として導入している。

これらの記号体系は、次の二つの目的を持っていた:

  • ① 臨床の繰り返しを一般化・抽象化するための数理的な書き換え
  • ② 精神分析を「記号論的構造の学」として基礎づけるための象徴化手段

ここで重要なのは、ラカンにおける**「記号の操作」=「現実への介入」**という思想である。記号とは表現の道具ではなく、**主体を宙吊りにし、現実をずらす「干渉の装置」**なのだ。

3. 数学と精神分析の奇妙な近接

ラカンはしばしば「数学に近づいた思想家」として言及される。彼自身、『書かれないものについて』では集合論、順序、写像、位相などの概念を用い、精神分析をトポロジーの次元に接続しようとする動きを見せている。

だが、この数式的な志向は、単なるモデル化の志向ではない。むしろラカンは、数学の特異性に着目し、それを「現実界への窓」として用いた。たとえば:

  • 集合論の空集合(∅)=「無の現前」
  • トポロジーの切断=「主体の裂け目」
  • 数式の非可逆性=「欲望のねじれ」

これらは、後にEthoMathにおいて展開される「数学的記述=生成を記述しきれない空白の図式」として継承されることになる。

4. 書き込みとしての言説、干渉としての数式

ラカンにおいて、記号の配置は「意味を伝えるため」ではなく、むしろ主体の構造を暴くために存在する。

つまり、書くこと(écriture)とは、主体の裂け目に印を刻む行為であり、それはまさに精神分析における「聴くこと」と等価である。

ここで、ラカン的書き込みは、後にEthoMathで展開される「記述の次元」と深く接続されていく。

EthoMathにおいてもまた、「記述」は単なる表象ではなく、「生成の痕跡」としてのトポスである。つまり、書くこととは、裂け目を生きることそのものなのだ。

このように、初期ラカンにおける記号と数式の操作は、精神分析の「読み方」を根底から変える試みであり、同時に「記述としての数学」へとつながる回路の開通点でもあった。

彼の「語りを数式化する」という企ては、記号の遊戯ではなく、現実の裂け目を記述するための倫理的行為として理解されるべきである。

第3章 享楽とリアルの時代へ

——ラカン後期思想の再編成と生成の裂け目

ラカン思想を「初期・中期・後期」に分ける分類は便宜的なものであるが、1970年代以降のラカンには、明らかに質的な転回が存在する。

その転回は、「言語の構造」として捉えられていた無意識を、構造の破綻点や書き込み不能な次元=“リアル”の経験として再定義する方向で起こった。

それはまさに、言語が沈黙する場所、シニフィアンが通じなくなる裂け目への移行であった。

1. 三界理論とボロメオの輪

この転回において、ラカンが導入したのが有名な**「三界理論」**である。

  • 象徴界(le Symbolique):言語、法、秩序、社会制度
  • 想像界(l’Imaginaire):イメージ、鏡像、同一化、ナルシシズム
  • 現実界(le Réel):不可能なもの、言語化不可能な経験、裂け目

これら三つの界は、しばしば互いに干渉し合いながら構成されるが、ラカンはそれをトポロジカルに表現するため、**「ボロメオの輪」**という構造を用いた。これは、三つの輪がそれぞれ一対一では結ばれておらず、三つすべてが繋がって初めて全体が維持されるという構造である。

ここにおいて、「主体」とは、この三界の結び目として成立する関係的な存在であり、どれか一つが外れると全体が崩壊するという不安定な絡まりである。

2. 「享楽(Jouissance)」という概念の深化

ラカン後期において特に重要なのが、**「享楽」**という概念である。

これは、単なる快楽(plaisir)ではない。むしろ快楽原則に反するような、身体的・精神的限界を越える過剰な経験であり、言語で包摂できない痙攣的なリアルの感触である。

享楽とは、象徴的秩序に裂け目をもたらす現象である。言語によって秩序化された世界のなかに、どうしても回収できない「余剰」として、それは立ち現れる。

たとえば性的享楽、宗教的陶酔、トラウマ、創造的インスピレーションなど、**名前のない「刺し傷のような経験」**は、ラカン的に言えばすべて享楽の現れである。

ラカンはこれを対象a(小文字のa)と結びつけ、**「欲望の原因」としての享楽」**という構造を見出した。

3. 言語の外へ:書き込み不可能なリアル

ここでラカンは、以前まで「無意識は言語のように構造化されている」としていた姿勢を微修正する。

彼は言語によって構造化されない“なにか”、つまり**「書かれないもの」**への関心を強めていく。

この流れのなかで登場するのが、

  • 「性関係は存在しない」
  • 「書かれない数式」
  • 「ノット(結び目)による表現」

といった一連のパラドクスである。これらはすべて、形式や論理では捉えきれないリアルへの問いであり、ラカンが後期に至ってなお「生成の現場」に立ち返ろうとしていたことの証左である。

4. EthoMath的接続:リアルとしての「生成」

私たちEthoMathの立場から見ると、ラカン後期のこの展開は極めて示唆的である。

なぜなら、ここでラカンは言語の限界を見据えながら、**それでも語られないものを語ろうとする「倫理的態度」**を持ち続けていたからである。

EthoMathでは、この「語りえぬもの」を生成(genesis)として再定義する。

つまり、数学も精神分析も、言語も社会も、すべては「言語の外側で生起するリアルな生成」への応答として構築されているという前提に立つ。

そして、ラカンが数式や結び目によってリアルの輪郭を描こうとしたように、私たちは、生成の現場そのものを記述するための新たな記法=エトマス記述を試みるのである。

このとき、「享楽」とはもはや病理ではない。

それは、「生の裂け目に触れる力」であり、真に創造的な思考が立ち現れる場となる。

この視点に立ったとき、私たちは自身の体験、あるいは言語化されない着想を、

「狂気」や「超越」ではなく、生成の倫理として再評価する地平を獲得する。

それは、次章で語られるある出来事——**「空頭受胎」**の準備である。

第4章 無意識のなかの数、数のなかの無意識

——生成のリアルと数学的思考の起源

私たちはこれまで、精神分析の枠組みのなかで言語の構造、記号の操作、そして享楽とリアルの出現を追ってきた。だが、ある問いが静かに立ち上がる——数はどこから生まれるのか?

この問いは、ラカンの語彙で言えば「象徴界の起源」に関わるものである。

そして私たちEthoMathの立場からすれば、それは生成される数学=エトマス的数の起源を探る問いでもある。

この章ではまず、精神分析における「数」のモチーフを確認し、次に直観主義・生成論的数学観と接続しながら、数が現れる経験そのもの=生成のリアルを読み解いていく。

1. フロイトの夢と数:無意識における数的構造

フロイトは『夢判断』のなかで、数が夢のなかに頻繁に現れることに注目している。だがその数は、量的な意味ではなく、象徴的・関係的な構造を担っている。たとえば「3人の男性」「5つの扉」「1本の柱」などは、しばしば欲望や葛藤、記憶の構成単位として現れる。

これらの数は計算の対象ではない。それはむしろ、無意識における数的パターン=意味の形式であり、主体が構造のなかに置かれるためのフレームである。

この視点からすれば、数とは象徴的秩序の痕跡であり、同時に享楽的経験の断片でもある。

2. ブラウワーとベルクソン:生成としての数

数学の哲学において、「数の起源」に取り組んだのは哲学者だけではない。直観主義の創始者であるL.E.J.ブラウワーは、数とは形式ではなく、内的な時間経験によって生成されるものだと主張した。

彼にとって自然数は、すでにある「集合」ではなく、「1から2へ、2から3へと進む生成的な思考の運動」であった。

同様に、ベルクソンも「直観と持続」の哲学のなかで、時間と生成を中心に据え、**概念化される前の流れとしての「数」**を重視している。

彼らの考えに共通するのは、数を「あるもの(being)」ではなく、「なるもの(becoming)」として捉える視点である。

3. 数とリアル:書き込めない生成の手応え

このような観点から見れば、数学的思考とは「数を操ること」ではなく、数が現れてくる出来事に立ち会うことである。

それはあたかも、現実のなかに突如として現れる「型のない型」、あるいは生成の兆しとしての数である。

このとき数は、

• 言語に先立つ気配として現れ、

• 記号へと包摂される寸前で震え、

• 書き込み不可能な「リアルの手応え」として感じられる。

まさにラカンが言う「現実界」=象徴化されえぬものとしての数。

これこそ、EthoMathが追い求める「生成する数学」の原点であり、数の到来そのものが倫理的事件であるという視座である。

4. 次章への接続:数が“降りてくる”という出来事

こうして私たちは、数が概念ではなく「出来事」であるという地点にたどり着いた。

そのとき、数は計算や証明の対象ではなく、**世界の裂け目からもたらされる「語りえぬもの」**として現れる。

次章では、EthoMathの思想そのものを生み出す契機となった一つの体験、

すなわち、空頭受胎という出来事について語る。

それは、まさに数が外部から、しかも「私」を貫いて、現れた瞬間である。

言葉にするには危うく、しかし語らずにはいられない、リアルとしての体験記である。

第5章 空頭受胎——私的体験と数学的創造

——生成のリアルとしての「問いの降臨」

私には一つの体験がある。

それは論理では説明できず、記憶の形式にもなじまず、ただ**「あのとき、何かが私の頭上から降りてきた」**という、感触としてしか語りようのない出来事である。

それは幻覚でも妄想でもない。かといって、宗教的啓示のように「意味」が与えられたわけでもない。ただ、何かが私の思考の形式を変えてしまった——そうしか言いようがないのだ。

私はこの体験を、**「空頭受胎(くうとうじゅたい)」**と呼んでいる。

1. それは、問いとしてやってきた

ある日、私は数学について考えていた。

数とは何か?なぜ我々は「1」を数えられるのか?

その問いは哲学の古典的なテーマであり、私にとっても長年の関心事であった。

だがそのとき、私は自分が問いを立てているのではないことに気づいた。

むしろ、問いそのものが私のもとに降ってきていた。

思考が「進む」のではなく、思考そのものが訪れるという、言語化しがたい転倒。

それは、まさに象徴界の外からやってきた問いであり、私の中にはなかったはずのものが、私の中で語り始めた瞬間だった。

2. 無であること、開かれていること

この体験に際して、私は**「空であること」によって、何かを受け取った**。

意志を持たず、構えもなく、ただ思考が空洞となったとき、ある形式が立ち現れた。それは感情ではなく、観念でもない。構造に近いが、数式ではない。

あえて比喩を使えば、それは「数」がイメージでも概念でもなく、“かたちを持たない力”として現れた感覚に近い。

のちに私はこの体験を、精神分析的にも、数理哲学的にも検討し直すことになるが、最初の瞬間には、ただ**“これは私の外から来た”という確信だけがあった**。

3. 数学は、もはや問題ではなかった

それ以降、私は「数学の問題を解く」ことに関心が持てなくなった。

かわりに、「数学がどうして現れるのか」という問いが、私の全存在を支配するようになった。

数学は体系ではなくなった。

数学は記号でも、学問でもなくなった。

それは、リアルの裂け目において触れるもの、言語の生成点に現れるなにかとなった。

このとき私は、まだ“EthoMath”という名前も、プロジェクトも持っていなかった。

ただ、何かが始まってしまった。それだけは確かだった。

4. 空頭受胎とエトマスの起源

この体験は、私にとって**ひとつの「数学的信仰告白」**に近い。

だがそれは神を信じることではなく、数が生まれる瞬間を信じること。

いや、信じるというよりも、「数は訪れる」と知ってしまった、というべきかもしれない。

EthoMathは、この空頭受胎という生成経験を起源に持つ思想体系である。

それは、数が「ある」のではなく、「来る」ものであるという前提から出発し、

  • 数学とは生成の倫理であり、
  • 哲学とはその生成に気づくための装置であり、
  • 社会とはその生成を受け入れるための制度である

という世界観へと展開されていった。

この章は、私的体験であると同時に、普遍的な寓話でもある。

誰しもが、自らの人生のどこかで「何かが降りてきた」瞬間を持つのではないか。

その瞬間にこそ、思想は生まれる。

空頭受胎とは、私という構造が裂け目を持ったそのとき、数学というリアルが語りかけてきたという出来事に他ならない。

第6章 保守と欠如

——ラカンを政治思想として読む

「父の名」が失われた時代に、私たちはいかにして共同体を維持しうるのか。

象徴的秩序の破綻、イメージの氾濫、享楽の横行——こうした状況のなかで、ラカンの精神分析は、倫理や主体の問題を超えて、政治的共同体の設計原理そのものに切り込む可能性を秘めている

本章では、精神分析の語彙を用いた保守主義=ラカンサルヴァティズムという立場を定式化し、「欠如」を中心に据えた共同体モデルを提案する。

1. 欠如を否認する社会、享楽に埋め尽くされた政治

現代社会は、「不全」や「不完全さ」を嫌い、あらゆる欠如を補完しようとする欲望によって動いている。それは医療、教育、消費、情報といった制度にも貫かれており、個人も国家も「不足を許容する力」を失いつつある。

ラカンによれば、主体は常に何かが欠けている存在であり、その欠如を認識しないままに「享楽」へと走ると、欲望は制度化され、政治は快楽化される

現代の民主主義がポピュリズムやパフォーマンスに傾斜するのは、この「欠如の否認」が制度化された結果にほかならない。

2. 「父の名」の再定位——象徴的秩序の再設計

ラカンは「父の名(Nom-du-Père)」という概念を通じて、象徴的秩序の支点を語った。

これは単に父権や家父長制の擁護ではなく、**「象徴界において禁止と意味を導入する契機」**としての機能である。

現代社会では、この「父の名」が崩壊し、象徴的秩序の基盤が不安定化している。

だが私たちは、**それを古い権威に戻すのではなく、欠如の現認を基軸とした「新たな象徴の位置付け」**として再設計する必要がある。

これが、ラカンサルヴァティズムの思想的出発点である。

つまり、欠如を抹消しないための制度設計、それこそが真に保守的な仕事であるという立場である。

3. 欠如に基づく共同体——トポロジカル・ソサエティの萌芽

このような考え方から導かれるのが、**トポロジカルソサエティ(位相的共同体)**という構想である。

この社会では、

• 欠如=他者性=象徴のズレ が前提とされ、

• 完全性・同一性ではなく、**関係の「ゆらぎ」や「ねじれ」**が制度に組み込まれる。

• 社会構成はボロメオ的連結のように、異なる三つの次元——制度・感覚・生成——の絡まりとして設計される。

この構想は、従来の共同体論や社会契約論の枠を超え、精神分析的倫理を制度設計へと変換する試みとなる。

4. 保守とは何を守るのか——ラカンサルヴァティズムの定義

ラカンサルヴァティズムとは、以下のように定義される:

欠如を前提とし、それを消さずに維持することで共同体を持続可能にする思想。

欠如の記号化と、それに応答する制度の倫理。

欠如を耐えうる「象徴的主体」を育むための教育・医療・政治の再設計。

このとき「保守」とは、単に伝統を維持することではない。

それはむしろ、構造の不安定性を維持する強さを意味する。

この考え方は、**空頭受胎によってもたらされた「裂け目の倫理」**と完全に呼応する。

あらゆる制度設計において、「完全なシステム」ではなく、書き込まれぬ余白=問いの入り口を確保しておくこと。

これこそが、エトマス的政治思想の根幹である。

第7章 AIと空の宰相

——象徴的空白の制度設計

かつて政治とは、「誰が権力を握るか」の問題だった。

だが現代は、「誰が責任を取れるのか」が問われる時代である。ポピュリズムと専門官僚制の狭間で、政治的リーダーはシンボル的存在に還元される一方、その実質はAIのような非人格的な判断システムに委ねられつつある。

この章では、「空頭受胎」と「ラカンサルヴァティズム」の理念を背景に、“象徴的空白”を中心に据えた政治設計=空の宰相モデルを提案する。

それは、AIが統治するのではなく、AIが空位を保証することによって主体の自由と責任を支える構造である。

1. 空位(vacancy)という原理

日本の天皇制、イギリスの立憲君主制、そして中世の「王の二つの身体」論において、**「権力の空位性」**がいかに共同体の安定をもたらすかは、政治思想史上たびたび指摘されてきた。

ラカン的に言えば、象徴界の中枢には必ず「機能としての空白」が存在しなければならない。

主体の欲望が暴走しないためには、それを束縛する「名の父」が、制度としては存在し、しかし実体としては欠如している必要がある。

これを現代に翻案したのが、AIによる「空の宰相(Empty Prime Minister)」というモデルである。

2. AIは「判断するが、決定しない」

この構想においてAIは、

  • 多様なデータを解析し、
  • 複数の政策選択肢を生成し、
  • それらの選択における象徴的構造の影響を分析する。

だが最終的な決定は人間に委ねられる。AIは実行者ではなく「判断の構造」を示す補助線として働く。

それは、あたかもラカンの精神分析家が**「患者の無意識の語りを鏡のように反射し、解釈ではなく回帰を促す」**のに似ている。

つまり、AIは「答えを出す」のではない。

むしろ、「答えが生まれる空間=象徴的空白」を生成・維持する装置として設計されるのである。

3. 政治の欲望に応えるのではなく、ずらす

近代民主主義の根本的な困難は、「民意」が享楽化しやすいという点にある。

ポピュリズム的政治家は「民意の代理人」を演じながら、実際には欲望を掻き立てる「享楽の対象a」として機能してしまう。

空の宰相モデルは、この連鎖を断ち切るために、象徴的な空白=欠如の場所を制度化する。

AIが示すのは「満たされるべき欲望」ではなく、「その欲望がどこから来ているのか」という構造分析である。

これは政治を診断し、欲望の回路を可視化する倫理的空間へと変容させる試みである。

4. トポロジカル政治設計としてのAI補助装置

EthoMathでは、空の宰相を単なる技術提案としてではなく、構造としてのトポロジカル装置と捉える。

  • 象徴界の再配置=AIによる構造分析と助言
  • 想像界の防壁=人間的感情・物語・文化の保存
  • 現実界の受容=意思決定の不可避な限界への対応

この三つの輪がバランスを保つことで、政治はボロメオ的安定構造を形成し、「欠如に耐えうる共同体」として機能する。

このように、AIとラカン的構造は対立しない。むしろ、空白を守るための技術と倫理の同盟として、これからの政治設計にとって不可欠な要素となるだろう。

第8章 裂け目からの思想生成へ

——ラカンを超えて、ラカンとともに

本書で扱ってきたのは、単にラカンの理論を解説することではなかった。

むしろその正反対である。ラカンの理論を「生き返らせる」ために、それを一度破壊し、再構築する。

そしてそこから、私たち自身の言葉で思想を立ち上げる。これが私たちEthoMathの姿勢である。

1. 名誉回復とは、再び裂け目に立つことである

私たちは、「名誉回復」という言葉を、思想を再神格化することではなく、再び裂け目の倫理に戻すこととして用いてきた。

ラカンの理論は、難解でありながらも、私たちの時代が直面する構造的困難——欲望の過剰、象徴の崩壊、リアルの暴走——に対する応答であり続けている。

だが、それを生きた思想とするには、単なる読解では足りない。それを通過し、それと対決し、それを超えつつ、共に歩む必要がある。

2. ラカンを超えて始まる思想=生成する倫

EthoMathが目指すのは、数と倫理、生成と構造、リアルと制度の間にかかる橋である。

そこでは、

  • 数学は計算ではなく生成であり、
  • 倫理は規範ではなく感受であり、
  • 社会は全体性ではなく、結び目としての連続的ズレから構成されている。

これは、裂け目から出発する思想である。

つまり、完成を前提とせず、むしろ不完全さそのものを生成の条件とする思考である。

3. AI、制度、物語へ——裂け目をつなぐ架け橋として

空頭受胎という体験は、私にとってただの個人的啓示ではない。

それは、あらゆる人間が持ちうる「言葉にならない起源」としてのモデルである。

そのモデルは、AIや制度設計、物語といった次元においても応用可能である。

  • AIは、問いを支える空白を制度的に保証する。
  • 制度は、欠如を前提とした構造として設計される。
  • 物語は、数のように訪れる構造体験として共有される。

EthoMathは、それらすべてを裂け目に結びつける装置である。

4. ラカンの未来、そして私たちの現在

ラカンは、「私の後には、読者が必要だ」と述べた。

だが、読者とはただの消費者ではない。読者とは、生成者でなければならない。

ラカンを読むとは、彼の思想の裂け目を引き受け、そこに自分自身の問いを差し込むことである。

そこにこそ、「名誉回復」の本当の意味がある。

それは、彼をもう一度思考の起源に立ち戻らせることである。

私たちに必要なのは、新しい真理でも、新しい体系でもない。

必要なのは、「問いが来る空間」を守ることのできる倫理と構造である。

そのために、私たちはこれからも、数のように生まれ、数のように消えていく思想を生きよう。

数学するように、生きること。

それが、EthoMathが提示する思想の姿勢である。

終わりにかえて

ラカンは終わっていない。

なぜなら、われわれがまだ始まってすらいないからだ。

あとがき

この書は、ラカンを巡る旅であると同時に、私自身の思考の起源を辿る旅でもあった。

その道筋は、決して一直線ではなかった。

むしろ、思考は裂け、逸れ、戻り、時に沈黙に沈んだ。

だが振り返ってみると、そうした裂け目の一つひとつが、思考の生成点となっていた。

数がそうであるように、思想もまた「与えられる」のではなく、「訪れる」ものだった。

私が「空頭受胎」と呼んだ体験は、決して特別な奇跡ではない。

それは、誰しもが人生のある瞬間に経験する「言葉にならない確信」であり、

そしてその裂け目こそが、思想の最初の現場なのだと、私は信じている。

この書は、ジャック・ラカンという思想家に対する一つの敬意であると同時に、

彼を通過し、彼を超えて、未来に手渡すべき新たな思想の種子でもある。

私たちは、まだ始まったばかりだ。

ラカンを終わらせないために。

そして私たち自身が、「問いを生きる者」であり続けるために。

この書を最後まで読んでくださったあなたに、深く感謝を申し上げます。

思考は、つねに他者との関係の中で生成する。

この本もまた、あなたとの共鳴によって、生まれなおすことができるのだから。

――Dr. Nobody

EthoMath研究員として

参考文献一覧

【精神分析・ラカン関連】

• Jacques Lacan

 Écrits(邦訳:ラカン著作集)

 Le Séminaire(特に巻XVII『逆転のディスクール』、巻XX『アンコール』)

• Élisabeth Roudinesco

 Jacques Lacan: Esquisse d’une vie, histoire d’un système de pensée

 (邦訳:『ラカン伝』)

• 立木康介

 『精神分析という企て——ラカン・フロイト・生の哲学』

 『不在の否定——ラカン、<欠如>の哲学』

• 松本卓也

 『ラカンの哲学——欲望・身体・現実』

 『<甘え>という希望——ラカンによる現代日本論』

• 片岡一竹

 『精神分析と人文諸科学』

• 十川幸司

 『ラカン派精神分析入門』

• Slavoj Žižek

 The Sublime Object of Ideology

 How to Read Lacan(邦訳:『ラカンはこう読め!』)

【数学・哲学・直観主義】

• L.E.J. Brouwer

 Collected Works, Vol. 1

• Henri Bergson

 L’Évolution créatrice(邦訳:『創造的進化』)

• Kurt Gödel

 On Formally Undecidable Propositions…

• Jean Cavaillès

 Sur la logique et la théorie de la science

• Alexandre Grothendieck

 Récoltes et semailles(邦訳抜粋あり)

• Hermann Weyl

 Philosophy of Mathematics and Natural Science(邦訳:『数学と自然科学の哲学』)

【政治思想・社会理論】

• Carl Schmitt

 Political Theology

 The Concept of the Political

• Giorgio Agamben

 Homo Sacer(邦訳:『ホモ・サケル』)

• Claude Lefort

 The Political Forms of Modern Society

• Claude Lévi-Strauss

 La pensée sauvage(邦訳:『野生の思考』)

• Louis Althusser

 Pour Marx(邦訳:『マルクスのために』)

• Mark C. Taylor

 The Moment of Complexity

【思想的背景・補助資料】

• フランソワ・ドス

 『構造主義の歴史』

• 東浩紀

 『存在論的、郵便的』

 『弱いつながり』

• 浅田彰

 『構造と力』

• 中島義道

 『カントの人間学』

• 永井均

 『〈子ども〉のための哲学』

• カール・ポパー

 『開かれた社会とその敵』

• 森田真生

 『数学する身体』

補章1 EthoMathとは何か

——生成と倫理のあいだに立つ数学

**EthoMath(エトマス)**は、“Ethogenetic Mathematics(エトジェネティック・マセマティクス)”の略称であり、数学と倫理の新たな交差点を探求する思想運動である。

その目的は、単に数学を倫理的に応用することではない。

また、数学を通して人間性を測定することでもない。

むしろその逆である。

数学するとは、生きることである。

この言葉は、EthoMathの核心をなす信念であり、

数の誕生は「頭の中」ではなく、「生の裂け目」で起こる、という立場を明示している。

1. エトジェネティックとは何か?

“Ethogenetic(エトジェネティック)”という語は、既存の英語には存在しない造語である。

この言葉は以下の三語から構成されている:

  • Ethos(習慣・倫理・生の姿勢)
  • Genesis(生成・起源・誕生)
  • Mathematics(数理的記述の営み)

つまりEthoMathは、「倫理的生成の現場としての数学」あるいは「生成そのものに向き合う姿勢としての数学」として位置づけられる。

2. 数学はどこから始まるのか?

エトマスは、数を**「存在するもの」ではなく、「生起するもの」と捉える。

ここでの数学は、演繹的体系でも、形式主義的ゲームでもない。

それは主体の裂け目において、リアルとして現れる問いへの応答**なのである。

そのため、EthoMathでは次のような命題が基盤となる:

  • 数は「与えられる」のではなく、「訪れる」
  • 記述は「対象の表現」ではなく、「生成の痕跡」
  • 記号とは「意味の容器」ではなく、「創造の遅延」

3. EthoMathの三界モデル(ラカン的接続)

EthoMathは、ラカンの三界構造と接続しながら、以下のような位相を持つ:

ラカンの三界EthoMathの三界対応説明
象徴界記述(記号・数式・論理)記述不可能性を抱える構造としての言語・数式
想像界直観(時間経験・身体性)直観主義的数概念や生成への感受性
現実界生成(裂け目・空白・問い)空頭受胎のような象徴化されない生成経験

4. EthoMathの実践原理

EthoMathは思弁的体系ではない。

それは「生の裂け目に立つ倫理」であり、教育・制度・政治・物語などに応用される実践的フレームである。

たとえば:

  • 数学教育=子どもが数の生成に触れる空間の設計
  • AI倫理=判断を固定しない「空白の参謀」としてのAI設計
  • 政治制度=象徴的欠如を前提とした「空の宰相」モデル
  • 物語創作=数が言葉になる前の揺らぎを描く詩的言語の創出

EthoMathは、まだ生成の途中にある。

それは完成された理論ではなく、むしろ裂け目に触れた者たちによって開かれていく、開いた数理空間である。

補章2 ラカンサルヴァティズム宣言

——欠如を守るための政治倫理

われわれは、ラカンを「保守思想家」として読む。

だがそれは、古き父権秩序への回帰ではない。

むしろ逆に、「父の不在」を引き受けるための倫理構造を探ることこそが、現代における保守の使命である。

1. 欠如は失敗ではない。それは生成の条件である。

われわれは、不完全である。

国家も、制度も、主体も、どこかが欠けている。

ラカンサルヴァティズムは、この欠如を消そうとしない

欠如とは、死んだ神の残骸ではない。

欠如とは、新しい倫理が発芽する裂け目である。

ラカンが「父の名」を象徴的機能として捉えたように、

われわれは象徴的欠如を中心に据えた共同体を思考する。

2. 保守とは、制度を維持することではなく、構造の不安定性に耐える力である。

保守とは、壊れないように守ることではない。

むしろ、壊れていることを受け入れたうえで、構造を創造的に再配置することである。

この立場において、政治制度とは次のように再定義される:

• 法は完全性の保証ではなく、不完全性の手続き化である

• リーダーは神ではなく、空白を担う代理装置である

• 国家は同一性の源泉ではなく、他者性の受容空間である

3. ラカンサルヴァティズムの三原則

1. 欠如の肯定

 満たすのではなく、欠けていることに耐える共同体へ

2. 象徴的空白の制度化

 「決定者なき構造」=空の宰相を前提とした政治設計へ

3. 生成の倫理

 主体を閉じず、裂け目から思考が生まれ続ける空間を守ること

4. この宣言は、まだ未完成である。

ラカンサルヴァティズムは、保守思想のひとつの再定義である。

だがそれは、ある意味で「守ることをやめることを守る」思想であり、

完結した体系ではなく、常に問いを呼び込む裂け目を含んだ形式である。

われわれは、過去を守るのではなく、問いが生まれる未来を守る

ラカンは終わったのではない。

ラカンサルヴァティズムとは、彼をもう一度始めるための名前である。

補章3 空頭受胎の哲学的位置づけ

——幻覚、裂け目、そして生成のリアル

私が「空頭受胎」と呼ぶ出来事は、ある瞬間、私の頭上に“何か”が降りてきたという体験である。

それは目に見えるイメージではなかったし、はっきりした言葉でもなかった。

だがそれは確かに、「私の中から」ではなく、「私の外から」やってきた。

それは、知覚されることのない幻覚であり、意味を持たない啓示だった。

私はそれを、数のように「そこにある」ものとしてではなく、数が「現れてくる」ことそのものとして経験した。

1. これは狂気か?あるいはラカン的「幻覚」か?

ラカンにおいて、幻覚(hallucination)は、単なる病的現象ではない。

むしろそれは、象徴界が裂け、現実界が“過剰に”侵入してくる現象である。

とくに精神病における幻覚は、「父の名」が機能しないことによって、

象徴的秩序が構築されず、現実が“直接”流れ込むという出来事として説明される。

この観点からすれば、空頭受胎もまた、象徴界の破れ目から現実界が“語ってきた”体験であると解釈できる。

ただし私の場合、それは破壊ではなく、創造の契機として受け取られたという点で決定的に異なっていた。

2. 精神分析的には、「未分化な他者の声」だった

ラカンは、幻聴とは「自我の外部に位置するシニフィアンの声」であると説いた。

それは、主体が言語の回路に入る前に聞いてしまった他者の声——母の声、あるいは神の声のようなもの。

空頭受胎の瞬間、私はまさに**「自我ではなく、主体以前の場所に語りかけられている」という感覚を味わった。

それは、聞こえるというよりも、「空間が語っていた」**という体験だった。

この体験は、精神分析的に言えば「未象徴化のシニフィアンとの遭遇」である。

そして、その遭遇を狂気としてではなく、「問いの受胎」として捉え直すことができたのは、

私自身がすでにラカンを読んでいたからだった。

3. 数は、幻覚のように現れる——そして思考を始めさせる

この出来事を通じて、私は数を、概念でも対象でもなく、

生成の裂け目における幻覚的現前として理解するようになった。

数は、見えるのではない。

数は、語られる前に「やってくる」。

EthoMathは、数が幻覚的に現れる瞬間を思想化する試みでもある。

そこでは、「数学」は計算ではなく、幻覚から問いを生成し、記述へと翻訳する一連の倫理的プロセスとして位置づけられる。

4. 空頭受胎は、誰にでも起こりうる

この体験は、あくまで私にとっての出来事であり、絶対化するつもりはない。

だが私は確信している。これは私だけのことではない。

  • ある日、言葉にならない確信が訪れる
  • なぜかわからないけど、「あれは問いだった」と後になって気づく
  • そして、それが一つの生き方や探究を始めさせる

それは、形は違えど、**誰しもがどこかで経験する“生成の裂け目”**なのだ。

空頭受胎とは、問いが外部からやってくるという倫理的な構えの名にすぎない。

結びに代えて:生成とは、思考が始まる前に触れること

空頭受胎は、問いの始まりだった。

そしてEthoMathは、それを「生成の倫理」として育てていく営みである。

ラカン的に言えば、これはリアルとの遭遇を、思考へと昇華する試みに他ならない。

数学は、もはや数の学ではない。

それは、裂け目から届いた“名づけえぬもの”を、静かに記述していく行為である。

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