この記事では不条理に言及した人物とその代表作を紹介します。
セーレン・キェルケゴール(1813~1855 デンマーク 哲学者)
キェルケゴールは、デンマークの裕福な家庭の末っ子として生まれました。
彼の哲学の源は父にあります。
キェルケゴールの父親ミカエルは商売で成功していましたが、幼い頃は貧しく、
教会の土地に家を借りて住んでいました。
ミカエルは熱心なクリスチャンでしたが、同時に、貧しい自分の境遇を怨んでいたそうです。
そのため神に対して、信仰心と憎悪の両方を抱いたそうです。
またミカエルは、後に妻となるアーネ(キェルケゴールの母)に対して、
暴力的な性交渉を行い妊娠させてしまいます。
元々敬虔なクリスチャンの家庭に育ったミカエルは、やがて罪の意識に苛まれるようになっていきました。
この罪の意識は、息子のキェルケゴールにも引き継がれます。
父が犯した罪を知った時、キェルケゴールは大きなショックを受け、その体験を「大地震」と表現しています。
「大地震」後キェルケゴールは放浪の旅に出ます。
もうひとつ、キェルケゴールを語る上で忘れてはならないものは、レギーネという女性との婚約破棄です。
キェルケゴールはレギーネという当時17才の少女に求婚し、彼女も喜んでそれを受け入れたのですが、
後にキェルケゴールの方から一方的に婚約を破棄しました。
その理由は今でも謎とされており、キェルケゴール自身が
「その理由を知るものは、私の全思想の鍵を握るだろう」と書き残しています。
こうした経験が、彼の哲学を形作っていきます。
それまでの哲学は普遍的な人間という概念を扱っていましたが、キェルケゴールは個人としての人間という存在について語ろうとします。
そのため実存主義の先駆けとも言われます(実存主義についてはサルトルを参照)。
代表作は
- 死に至る病
- あれか、これか
- 不安の概念
フランツ・カフカ(1883~1924 チェコ 小説家)
カフカはオーストリア領プラハ(現在のチェコ)のユダヤ人の家に生まれました。
大学で法律を学んだ後、保険会社に就職し、退勤後に自宅で執筆活動を続けて幾つかの作品を残します。
カフカの作品は独特の緊張感と孤独感が漂っているのが特徴で、後に不条理文学と呼ばれます。
決して多作ではなく、中断されたものも中にはあるのですが、彼の文章は後世の作家や哲学者に多大な影響を与えました。
では、なぜカフカは不条理をテーマに選んだのでしょうか。
その謎は父との確執にあります。
父はヘルマンといい、小間物屋を営む裕福な商人でした。
しかし幼い頃は非常に貧しく、働きながら初等学校に通ってドイツ語を身に付けました。
ユダヤ教の教えに則り、13才で成人し、翌年には商人として独立しました。
結婚後のヘルマンは、家庭では非常に強権的で、しばしばカフカを悩ませました。
恵まれた環境で育ったカフカに対して子供の頃の苦労話を何度も聞かせてうんざりさせたり、
文学に対して理解を示さず、作家を志していたカフカとはなにかと折り合いがつかなかったそうです。
カフカの恋愛にも介入し、親子の仲は険悪になっていきました。
そんな折に、カフカは便箋100枚にも及ぶ手紙をヘルマンに対して送っています。
そこには、父の言動によってどのように自分が傷付けられ、精神世界に変容を強いられ、
自分の恋愛や婚約の失敗にまで悪影響を与えていることが綴られていました。
想定され得る父からの反論にも先回りして答える徹底ぶりです。
しかしこの手紙は、手渡された母と妹に読まれ、彼女たちの判断で父ヘルマンの手には渡らなかったそうです。
カフカは父という絶対者から突き放され、自分という存在が宙吊りにされたまま生かされるという不安感を抱いていたのではないでしょうか。
その感情が不条理文学という形で結晶したといえるかも知れません。
代表作は
- 変身
- 審判
- 城
- 流刑地にて
ルイ=フェルディナン・セリーヌ(1894~1961 フランス 小説家)
セリーヌは「最も呪われた作家」と呼ばれています。
若い頃に第一次世界大戦に従軍し、負傷を受けて帰国後に英雄として扱われます。
戦後はパリ大学で医師の資格をとると、そのままパリにとどまって開業医となります。
この期間に処女作にして代表作である『夜の果てへの旅』を出版して、一躍文壇の寵児となりました。
ところが4年後に出版した『なしくずしの死』では、その前衛的な文体が世の中に受け入れられず、大顰蹙を買います。
1940年、ナチスによるパリ占領。1941年には第二次世界大戦勃発。
セリーヌは大戦中、反ユダヤ主義を標榜していたため、戦後は亡命を余儀なくされます。
しかし亡命先のデンマークで拘禁され、コラボラトゥールとして有罪判決を受けます。
この時、多くの作家が彼の減刑を求め、最終的には第一次世界大戦時の功績を理由に釈放されました。
その後も執筆活動を続け、1961年に病没するまでに書かれた著作は、後の作家たちに大きな影響を与えます。
彼の小説は綺麗事に逃げず、猥雑な日常の中に突き立てられた鋭いナイフによって、人間の不条理さという暗黒のダイヤモンドを見事に抉り出してくれます。
後に紹介するサルトルやカミュに先んじて、不条理という残酷な現実に翻弄される人間存在そのものを題材にした作家として、実存主義の先駆者とよばれました。
代表作は
- 夜の果てへの旅
- なしくずしの死
- 戦争
- 城から城へ
ジャン=ポール・サルトル(1905~1980 フランス 哲学者 作家)
ジャン=ポール・サルトルは実存主義の哲学者として有名です。
幼い頃に父を失った彼は、祖父の家に預けられます。
その祖父がドイツ語の教授だったことが、サルトルを学問の道へと歩ませるきっかけとなります。
パリの高等師範学校に通い、アグレガシオン(教員資格を取得するための試験)を主席で合格します。
この時次席だった人物が、後に結婚相手となるシモーヌ・ド・ボーヴォワールです。
二人は初め、二年間の期限付きで契約結婚を結びます。夫婦関係を維持しながら、自由恋愛をお互いに容認するという、変わった結婚生活でした。
1938年、大学で教鞭をとりながら小説『嘔吐』を出版。
この作品が高く評価され、フランス政府からレジオンドヌール勲章を授与されるも、サルトルは辞退。
後にノーベル文学賞の受賞が決まりますが、この時も断っています。
個人としてはマルクス主義に接近していき、アルジェリアの独立運動や中国の文化大革命、キューバ革命後の革命政府を支持するなど、左翼言論人として独自路線を歩みます。
そんな彼は、実存哲学の中で最も重要な人物と見なされており、「実存は本質に先立つ」という言葉はとても有名です。
それまでの西洋哲学では、神が何らかの意図を持って世界や人類を創生したはずであり、存在する全ての事物には意味(本質)があると考えられていました。
しかしサルトルは、その神がいなければどうなるか、と考えました(無神論)。
世界や人類の存在に意味を与える神が存在しないとすれば、生まれた後に存在することの意味(本質)を問わなければなりません。
これが「実存は本質に先立つ」の意味であり、実存主義の立場を簡潔に表しています。
他にも「即自・対自」「まなざし」「アンガージュマン」など、さまざまな概念を提唱し、75才で病没するまで精力的に活動し続けました。
代表作は
- 存在と無(哲学書)
- 嘔吐(小説)
- 出口なし(戯曲)
アルベール・カミュ(1913~1960 フランス 作家)
さて、本ブログで最も紹介したい人物の登場です。
アルベール・カミュはフランス領アルジェリア生まれ。
父リュシアンは農業従事者、母カトリーヌはスペイン系の大家族サンテス家の娘です。
カミュが生まれた翌年、父リュシアンが第一次世界大戦に従軍して戦死。
その後は母の実家であるサンテス家で育ちます。
サンテス家は貧しく、小さなアパートの一室で家族5人が暮らしていました。
一族の中に学のある人物もいませんでしたが、
カミュは美しい自然の中で幼少期を過ごすことができました。
後に彼は「私が自由を学んだのはマルキシズムのなかではなかった。私は確かに、自由を貧困のなかで学んだ」と言っています。
しかし子供の頃からカミュは体が弱く、後に患う結核は、生涯彼を苦しめました。
貧しかったカミュは、高等教育を受けるつもりはなかったらしいのですが、
入学した公立の小学校で教師をしていたルイ=ジェルマンという人物がカミュの才能を見抜き、
奨学金を借りてリセに進学します。
そして、リセで教鞭を取っていたジャン・グルニエという哲学者と出会い、カミュは多大な影響を受けます。
大学卒業後は一時期、気象台の資料整理の仕事に就きますが、知人の紹介で新聞記者となります。
26才の時に第二次世界大戦が勃発。
カミュは自ら徴兵を志願しますが、健康上の理由で断られます。
戦争が始まる前からカミュは平和主義を訴えており、それが原因で勤めていた新聞社は発禁処分となり、
責任を問われて会社を解雇されてしまいました。
その後は別の新聞社に再就職し、後の代表作となる小説や戯曲を書き始めます。
パリがナチスに占領されると、アルジェリアからフランス本国に渡り、ジャーナリストとしてレジスタンス活動に参加します。
この時、同郷の女性フランシーヌ・フォールと結婚しました。
しかし物資の不足や、読者の減少から失業し、妻の故郷であるアルジェリアのオランに渡ります。
この地で『異邦人』『シーシュポスの神話』『カリギュラ』を完成させ、『ペスト』の執筆に取りかかります。
激動の時代に積極的に活動してきたカミュでしたが、1942年持病の結核が悪化して喀血。
療養のため再びフランスに転居します。
そして戦争中に小説『異邦人』、エッセイ『シーシュポスの神話』、戯曲『カリギュラ』を発表、
さらに占領下のパリでサルトルやその妻ボーヴォワールらと知り合います。
1944年パリ解放。同地で機関誌『コンバ』を立ち上げ、編集長に就任します。
戦後『ペスト』を発表して名声を得ると、コロンビア大学に招かれて講演するなど、世界的な知名度も高まっていきました。
しかし1952年に公刊した『反抗的人間』では賛否両論にさらされ、友人だったサルトルからも批判を受けます。
当時マルクス主義に賛同していたサルトルに対し、カミュはあくまで自由と平和を支持する立場を主張しました。
これをきっかけに二人は決定的に決別してしまいました。
さらに故郷であるアルジェリアで独立戦争が勃発。
フランス人としてのアイデンティティーと、アルジェリア生まれというアイデンティティーに引き裂かれ、曖昧な態度を取ってしまったカミュは、次第にフランスで孤立していきます。
その後しばらくは沈黙を続けますが、1956年に小説『転落』を、翌57年に『追放と王国』を発表し、
同年43才の時に、ノーベル文学賞の受賞が決まります。戦後では史上最年少の受賞でした。
確固たる名声を得て、生活も安定し始めたカミュでしたが、1960年、友人の運転する車で事故に遭い、帰らぬ人となりました。
戦争で父を失い、幼いころから病弱だったため、嫌でも「死」を意識せざるを得なかったカミュは、限られた生を十二分に謳歌したいと強く思っていました。
それが彼の、自由と平和を支持する思想を形成し、執筆によって積極的に政治へ参加していった理由でもありました。
そんなカミュが最も関心を抱いたテーマが不条理だったのです。
『異邦人』では人間の非合理性を追及し、『ペスト』では自然の猛威と人間の無力さを描き出しています。
『シーシュポスの神話』では過去の実存主義者たちを批判して、不条理に対して新しい視座を提供しました。
『反抗的人間』では不条理に立ち向かう人間は、孤立ではなく連帯する必要があることを説いて、現実に対して抗う姿勢を示しました。
カミュの作品と生きざまは、同時代のヒューマニズムを体現しています。
その姿勢は今を生きる我々にも参考になる部分が大いにあると思います。
代表作は
- 異邦人(小説)
- ペスト(小説)
- シーシュポスの神話(エッセイ)
- 反抗的人間(評論)
- カリギュラ(戯曲)
では次にアルベール・カミュの『シーシュポスの神話』をもう少し詳しくみていきましょう。
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