- 第八章 政治理論──保守と自由、共同体の再定義
- 第九章 外交理論──他者への応答、国家の欲望と享楽
- グローバリズムとナショナリズム──普遍の欲望と特異の享楽
- 第10章 憲法と軍備について――「象徴界」としての国家、防衛をめぐる倫理的想像力
- 第11章 教育のラカニアン倫理――アイデンティティの創出と象徴界への導入
- 第12章 天皇制と象徴の倫理――敬意をめぐるラカンサルヴァティズム的考察
- 天皇制は「現実」ではなく「象徴」である
- 第13章 市場と欲望の経済学――ラカンサルヴァティズムにおける〈不足〉と成長
- 第14章 象徴界の守り人たち――文化・宗教・儀礼のラカンサルヴァティズム的意義
- 終章 ラカンサルヴァティズムの未来へ――不可能なものにこそ忠誠を
- 【第二部:参考文献】
- 補章:トポロジー的転回と社会の新しい地図
第八章 政治理論──保守と自由、共同体の再定義
はじめに──〈政治的なるもの〉と無意識
ラカンサルヴァティズムは、政治的立場であると同時に、精神分析的倫理の延長線上に位置する。ここで問われるのは、「政治とは何か」ではなく、「政治とはいかなる〈構造〉として存在するか」ということである。すなわち、政治とは、象徴的秩序の構築と維持にかかわる営みであり、主体が〈他者〉との関係を通じて、現実の中で位置を与えられる場である。
この観点から見ると、政治は単なる制度や政策の集合ではなく、主体の無意識の構造、享楽の経路、〈名づけ〉の体系と深く結びついている。「法」「伝統」「国家」といった政治的な概念は、単なる外在的構造ではなく、むしろ内在的な構え――つまり、象徴的秩序を受け入れ、裂け目の中で位置を占めるための構えとして働く。
ラカンと政治──無意識は政治的であるか?
「無意識は政治的であるか?」この問いは、単なるレトリックではない。ラカンの理論において無意識とは、自己の内部に閉じた私的領域ではなく、常に〈他者〉の言葉、すなわち象徴秩序によって構造化された場である。主体は、自らの欲望を他者の欲望としてしか知覚できず、したがって〈他者〉の構造=象徴的政治の中に投げ込まれる。
この観点からすると、無意識そのものが「国家的」であり、「共同体的」であり、「政治的」である。主体は、つねにすでに象徴的契約に組み込まれている。したがって、無意識の構造が壊れたとき、あるいは象徴秩序の崩壊が進むとき、それは政治的混乱として外在化されることになる。今日のリベラリズム的空間の不安定さもまた、象徴的契約の解体として捉えることができよう。
リベラリズム批判──自由の幻想と享楽の罠
現代の自由主義(リベラリズム)は、個人の自由と多様性を至高の価値として掲げる。しかしラカン的観点から見れば、この自由とは、享楽をめぐる幻想である。すなわち、「自由であること」が「制約から解放されること」と混同された結果、享楽の無制限な追求が肯定される。これは、法や共同体への帰属といった〈他者〉との関係を切断することであり、結果として主体は象徴的根拠を失い、分裂状態に陥る。
「自由」とは、〈法〉との契約において初めて意味を持つ。「法なき自由」は、いずれ〈超自我的命令〉に回収され、自己を消耗させる享楽の命令へと転化する。ラカンが言うように、自由の裏面には必ず享楽への命令があり、それはリベラリズムの世界に蔓延する空虚さや不安の根源となっている。
保守の再定義──〈父の名〉と共同体の倫理
では、「保守」とは何か。それは、単に過去への回帰ではない。ラカンサルヴァティズムが提示する保守の概念は、「象徴秩序の再建」への倫理的態度である。ラカンにおいて〈父の名〉とは、享楽を制限し、欲望の座標を与える象徴的機能である。保守とは、この〈父の名〉の再承認であり、象徴秩序への責任ある介入である。
共同体は、同一性の集団ではない。むしろ、裂け目を共有し、〈不完全さ〉を媒介として関係する存在たちの結合である。この意味で、保守とは「記憶の保持者」であると同時に、「未来の設計者」でもある。象徴秩序が不在のままでは、いかなる自由も、いかなる連帯も成り立たない。
ラカンサルヴァティズムの政治理論的意義
ラカンサルヴァティズムは、象徴秩序を再構築する営みとして政治を捉える。政治は、分裂した主体たちが、欠如を共有し、〈他者〉と契約を結ぶ場である。ゆえにこの思想は、ラカニアン・レフトが陥りがちな「すべてを脱構築する姿勢」、すなわち〈法〉や〈権威〉を単純に否定する態度に対して、明確な異議申し立てとなる。
ラカニアン・レフトが享楽の解放へと向かう傾向にあるのに対し、ラカンサルヴァティズムは、享楽に抗する倫理の可能性を模索する。ここで重要なのは、制限=抑圧ではないということだ。むしろ、〈制限されること〉こそが、欲望を育む土壌であり、主体が主体として立ち現れる条件である。
結論──裂け目における共存
ラカンサルヴァティズムの政治理論は、〈不完全であること〉への倫理的受容に根差している。それは、「分かりあえる」という幻想ではなく、「分かりあえないことの周囲を共に回る」共存のかたちを模索する。このとき、共同体とは、完全性への志向ではなく、裂け目の共有――つまり「共に在ること」の倫理的実践である。
そしてその実践は、過去の象徴秩序を単に模倣するのではなく、現代にふさわしい新たな〈父の名〉の名指しへと向かう。保守とは、象徴秩序への責任ある関与の名であり、自由とは、欲望の座標が明確化された場において初めて成立する。ここにおいて、ラカンサルヴァティズムは、現代政治理論への新たな貢献としてその輪郭を鮮明にする。
第九章 外交理論──他者への応答、国家の欲望と享楽
はじめに──国家間関係と〈他者〉の問題
外交とは、国家が国家に向かって語りかける営みであり、そこにはつねに〈他者〉が存在する。国家は単に実体ではなく、象徴的秩序と享楽の配置を内包した主体的構造でもある。したがって、外交とは「国家という主体が他者=他国とどう関係を持つか」、さらには「その関係がどのような無意識的構造の上に立っているか」を問う営みでもある。
ラカンサルヴァティズムにおいては、この外交関係を単なる利害の交換としてではなく、無意識の構造、象徴的契約、享楽の力学として捉え直す。外交とは、〈国家の無意識〉をめぐる言語的・象徴的な格闘の場なのである。
ラカンと〈隣人〉──「近すぎる他者」との倫理
ラカンが強調した「隣人(le prochain)」とは、ただ近くにいる人ではない。むしろ、我々にとって最も異質で、時に嫌悪と恐怖の対象となるような存在――すなわち、〈享楽する他者〉である。外交理論においてこの視点はきわめて重要だ。他国とは、まさにそのような「近すぎる他者」であり、自己の欲望の座標をかき乱す存在である。
このとき、外交的態度とは、「他国を理解する」ことではなく、「他国の理解できなさを受け入れる」こと、そしてそれでもなお〈象徴的契約〉を試みることである。すなわち、隣人を排除するでも、同一化するでもなく、「裂け目を媒介とした共存」を図ることが、ラカンサルヴァティズム的外交の出発点である。
覇権、同盟、孤立──国家の享楽の構造
近代以降の外交理論では、リアリズム、リベラリズム、構造主義といった枠組みが支配的だったが、それらはしばしば国家を欲望の主体とはみなさなかった。だが、国家にも欲望がある。国家は自らを〈完全なもの〉として表象し、他国からの承認を通してその欲望を満たそうとする。ここには、主体の欲望と同様に、享楽と幻想の構造がある。
たとえば、覇権を目指す国家は、「他国を支配したい」のではなく、「支配することで自己の空虚を埋めたい」のだ。同盟は、「共通の利益」を超えて、「共に裂け目を包摂してくれる他者」を求める無意識的な動きでもある。そして孤立政策には、「裏切られるくらいなら最初から関係を持たない」という享楽の自己完結的構造が見える。
グローバリズムとナショナリズム──普遍の欲望と特異の享楽
グローバリズムは普遍性を志向し、ナショナリズムは特異性に固執するように見える。しかしラカンサルヴァティズムは、この対立そのものを別の角度から読み直す。普遍性とは、他者との象徴的契約を広げようとする欲望である一方、特異性とは、自己の享楽に固執する姿勢でもある。
問題は、どちらが「正しいか」ではない。むしろ、両者がそれぞれの〈享楽の構造〉に縛られている限り、真の対話は成立しない。ラカンサルヴァティズムが目指すのは、欲望の普遍性と享楽の特異性を調停する第三の論理――すなわち、「象徴的契約の倫理」である。
他者への応答可能性──ラカンサルヴァティズム外交の原理
ラカンサルヴァティズムにおいて外交とは、「相手の享楽を侵犯せず、かつ自己の欲望を語ること」である。これは単なる妥協や中庸主義ではなく、〈名づけ〉の行為であり、〈法の場〉を他者と共有する試みである。
そのためには、まず国家が自らの欲望と享楽を見つめ直す必要がある。「我々は何を恐れているのか」「なぜこの同盟に固執するのか」「なぜ敵を必要とするのか」――こうした問いを経た先に、他者との象徴的契約が初めて可能となる。
結論──裂け目を外交する
ラカンサルヴァティズムにおける外交は、現実政治の現場で直ちに実装できる技術ではない。むしろそれは、政治的無意識の倫理的省察として、外交に対する新たな思考の枠組みを提示するものである。
国家は「裂け目を外交する」主体であるべきだ。すなわち、享楽の構造を自覚しつつ、欲望の言葉を失わず、他者と象徴的な約束を試みる主体である。これは、力の論理でも、正義の理念でもなく、裂け目を媒介とした共在の倫理である。この倫理こそが、ラカンサルヴァティズム外交論の中核をなす。
第10章 憲法と軍備について――「象徴界」としての国家、防衛をめぐる倫理的想像力
憲法をめぐるラカン的考察:国家の「名-の-父」としての法
国家における憲法は、ラカン理論において「名-の-父(Nom-du-Père)」として理解されうる。それは象徴界における秩序の根源であり、欲望の無制限な暴走を抑え、共同体を構造化する境界線となる。戦後日本の憲法、特に第九条は、自己制限的な倫理を象徴するラディカルな装置として機能してきたが、同時にそれは「去勢」された主体の構造と重なり、現実的脅威への対応を不可能にする「幻想」にも絡め取られている。
憲法が象徴界の枠組みであるならば、それは更新されうる記号体系であり、不変の神話ではない。すなわち、ラカンサルヴァティズムは「憲法改正」という行為を、単なる権力志向の保守ではなく、共同体の象徴秩序を現実の変化に応答させる創造的作業とみなす。ここで重要なのは、改正の動機が「現実界」への恐怖に駆られたものではなく、倫理的かつ象徴的責任に基づくものであることだ。
軍備と主体の「現実界」
ラカンが語る「現実界(le Réel)」は、象徴界にも想像界にも完全には取り込めない外部の次元である。自然災害、パンデミック、そして戦争や侵略といった暴力は、この現実界の力を最も赤裸々に示す事象である。平和憲法の理念が象徴的秩序のうちに理想化される一方で、北朝鮮のミサイルや中国の海洋進出は、そうした理想を貫通する現実界の襲来である。
ラカンサルヴァティズムは、そうした現実界に無防備でいることを「倫理的」とはみなさない。それはむしろ、象徴秩序の回復不能な破綻を招く自己欺瞞である。したがって、国家が防衛力を保持し、国民の生存を保障することは、欲望ではなく〈他者〉への責任としての倫理である。これはラカンの言う「真の欲望とは倫理に従うことである」という命題と響き合う。
軍備の語り方:ファルス的想像を超えて
日本における「軍備」や「国防」をめぐる言説は、しばしばファルス的(phallic)な自己強化の幻想に左右されやすい。保守派の一部には、強大な軍事力そのものを国家のアイデンティティと同一視しようとする動きも見られる。一方、リベラル派は、軍備を想像界の悪として排除する傾向にあるが、それもまたファンタズムにすぎない。
ラカンサルヴァティズムは、軍備を想像界的な力の誇示としてではなく、象徴界における最小限の秩序維持装置とみなす。重要なのは、国家防衛の主体がどのような象徴的契約に基づいて構成されているか、という倫理的視点である。自衛隊の存在、あるいは将来的な軍備の在り方も、単なる「必要悪」ではなく、「象徴秩序の再記述」として再定位されなければならない。
「ラカニアン・レフト」との違い
ラカニアン・レフトは、軍備や憲法改正の問題を「権力性への加担」として即座に拒否する傾向がある。しかし、ラカンサルヴァティズムは、象徴界の更新を恐れることなく、国家の倫理的主体性を構築しようとする。その際、われわれはラカン理論を武器に、現実界への洞察力を高め、象徴的責任の地平を広げてゆくことができる。
第11章 教育のラカニアン倫理――アイデンティティの創出と象徴界への導入
教育とは何か――象徴界への「参入儀礼」としての教育
ラカンにとって主体とは、象徴界によって切り取られ、構造化されるものである。この意味で、教育とは単なる知識の伝達ではなく、〈他者〉の言葉を通して主体が象徴界へと参入する儀礼的プロセスである。ここにおいて教育は、主体に「名-の-父」に代表される象徴的秩序の枠を与え、「私は何者か」という問いに対する構造的な位置を授ける。
ラカンサルヴァティズムは、教育をこのような象徴的移行の場と捉え、単なる自己肯定や感情的共感にとどまらない、厳密な秩序との出会いの場として捉え直す。これは「自由な自己実現」のための教育ではなく、「他者の言葉に触れること」によって生まれる主体変容の場である。
教育の危機――「想像的な承認」への偏重
現代教育は、「個性の尊重」「自己肯定感の育成」などを強調するあまり、象徴的媒介の役割を縮小させ、想像的な「ミラー関係」への傾斜を強めている。これは、子どもと教師、あるいは子ども同士が「共感」や「仲良し」といった即時的な関係に閉じ込められる状況であり、ラカンの言う「鏡像段階」に固定化される危険をはらんでいる。
このような想像界偏重の教育では、子どもたちは象徴界の法や限界を知ることなく、〈他者〉との関係を構築できないまま、脆弱なアイデンティティを抱えて社会に出ることになる。ラカンサルヴァティズムはこの流れに警鐘を鳴らし、「不快」で「摩擦的」な他者との出会い、象徴秩序への導入こそが教育の根本であると主張する。
親・教師・国家――教育主体の象徴的構造
教育は個人の営みではなく、象徴的な三項関係において構造化される。すなわち、「親(家庭)」「教師(学校)」「国家(制度)」という三者が、ラカン的には「母(欲望)」「名-の-父(法)」「〈他者〉(言説)」という形で絡み合う。これらの関係が断絶されるとき、子どもは「象徴界への橋渡し」を失い、欲望の混乱(母の欲望の未切断)や、権威の否認(父の排除)を引き起こす。
現在の教育改革では、家庭教育への依存や、学校の自由化、教師の権威の低下が進んでいるが、これらはいずれも「父の機能」の剥奪に繋がっている。ラカンサルヴァティズムは、この「父の名」を回復する教育を再構築しなければならないと考える。ここでいう「父」は暴力的な権威ではなく、「法と言葉」の担い手である。
アイデンティティ政治への応答
教育の場は、ジェンダー、国籍、民族、性的指向など、さまざまな「アイデンティティ政治」の渦中にある。ラカニアン・レフトは、これらのマイノリティ的主張を擁護するが、その多くが「想像界の欲望の正当化」にとどまり、象徴界への構造的導入を欠いているとラカンサルヴァティズムは考える。
すなわち、真正な教育とは「私は〇〇である」という同一化を保証する場ではなく、「私は何者でもない」という空白と対峙し、象徴界の中で〈他者〉との関係を模索する過程なのである。ここにこそ、教育の倫理がある。
第12章 天皇制と象徴の倫理――敬意をめぐるラカンサルヴァティズム的考察
天皇制は「現実」ではなく「象徴」である
ラカン理論において「象徴界」は、法、言語、秩序の領域である。天皇制が日本国憲法において「日本国民統合の象徴」と位置づけられていることは、この制度が「象徴機能」として国家的無意識に組み込まれていることを示している。
ここで重要なのは、天皇を「生身の主体」としてではなく、「象徴的な位置=名前=位」として扱うことにより、彼が政治的実体としてではなく、法と秩序を支える記号的支柱として機能しているという点である。つまり、天皇制とは「ラカンの〈名-の-父〉」に近い役割を果たしており、象徴的秩序を可能にする境界線として働く。
「敬意」とは何か――〈他者〉に対する倫理
ラカンサルヴァティズムにおいて、「敬意」とは単なる感情的な尊敬ではない。それは、自我の欲望を超えた〈他者〉の法に対して応答する態度である。天皇という存在は、まさにこの「欲望を超えた象徴的他者」の現れであり、敬意とはその「不在の存在」に向けられる倫理的な応答である。
現代における「リスペクト」や「自己肯定」の語法とは異なり、ここでの敬意は「私が理解できる範囲を超えたもの」に対して向けられる。つまり、天皇制を理解するとは、その「わからなさ」「語りえなさ」に対して沈黙と間を持つことでもある。
ラカン左派の問題点――天皇制批判と象徴界の破壊
ラカン左派(ラカニアン・レフト)に見られる天皇制批判の多くは、「個人の自由」や「国家権力からの脱構築」を名目に、象徴的秩序の中心を解体しようとする。しかし、象徴の空洞化は、法の空洞化であり、最終的には想像界的な自己愛の無制限な拡張へと至る。
天皇制は、現代日本における「国家的無意識」の中心に位置しており、その機能を否定することは、象徴界における〈名-の-父〉の喪失を招く。ラカンサルヴァティズムは、天皇制の制度的持続が民主主義と矛盾しないどころか、むしろ象徴秩序の安定装置として必要であることを強調する。
天皇制の未来と「ラカン保守主義」
ラカンサルヴァティズムは、天皇制を過去の遺物としてではなく、「未来においても維持されるべき象徴機能」として再評価する。この立場では、天皇は「支配する者」ではなく、「欲望を持たない者=空所の象徴」として、逆説的に国家的統合の倫理的支点となる。
ラカンのいう「去勢された主体」は、自らの欲望を制限することで象徴的責任を引き受ける存在である。天皇の「象徴たる役割」もまた、欲望の制限を通じて成り立つ去勢の倫理にほかならない。ここに、ラカンサルヴァティズムが肯定する「象徴の持続」としての天皇制の意味がある。
第13章 市場と欲望の経済学――ラカンサルヴァティズムにおける〈不足〉と成長
経済と「欲望の構造」
ラカン理論において欲望は、「欠如(manque)」から発する構造的なものである。人間は完全性に到達することはなく、常に〈他者〉を通じて自らの欲望を構築する。市場経済とはまさにこの「欲望の転移構造」の社会的展開であり、モノが欲しいのではなく、他者の欲望の対象としてそれを欲するのである。
この構造のもとでは、欲望の終焉も経済の静止もあり得ない。しかしそれは同時に、無限の欲望追求が自己破壊的な帰結に至る可能性も孕んでいる。ラカンサルヴァティズムは、経済を単なる「効用の最大化」の問題としてではなく、象徴秩序における欲望の倫理として再定位する。
欠如を肯定する経済成長――脱成長主義への批判
近年のラカン左派やポスト資本主義的な議論には、「脱成長(degrowth)」という理想がしばしば登場する。これは消費主義やグローバル資本主義の暴走に対する倫理的反動ではあるが、しばしば「経済成長そのもの」への敵意となり、欲望の否定へと傾斜する。
ラカンサルヴァティズムは、欲望の構造を否定することなく、その象徴的秩序内での制限と方向づけに重点を置く。成長は「享楽」ではなく「努力と制限を通じた象徴的成果」であり、倫理的成熟のひとつの形式でもある。すなわち、ラカンサルヴァティズムは「健全な経済成長」を認める保守主義であり、欲望に秩序を与える象徴の倫理を重視する。
経済的主体とは誰か?――享楽と主体の構造
経済理論の多くは「合理的経済人(ホモ・エコノミクス)」を前提としている。しかしラカンの理論からすれば、人間は欲望の構造に翻弄される非合理な主体であり、享楽(jouissance)をめぐる分裂的存在である。つまり経済的主体とは、常に「失敗しながら欲望する存在」である。
ラカンサルヴァティズムは、そうした分裂的主体に対して道徳的責任を押しつけるのではなく、「不完全であることを前提とした社会的制度設計」を志向する。経済政策もまた、万能な設計ではなく「象徴界における失敗の繰り返しの中に可能性を見出す営み」であるべきだ。
経済における〈他者〉――倫理と富の再配分
ラカンにおける〈他者〉は、単なる他人ではなく、欲望と法の根源をなす構造的存在である。市場においてもこの〈他者〉は機能しており、たとえば価格や通貨といった制度は、象徴的他者の媒介によって成り立っている。
富の再配分や社会保障といった課題も、この象徴的他者への応答として再定義されるべきである。単なる「善意」ではなく、「象徴の責任」として再配分の倫理を考えること。ここに、ラカンサルヴァティズムが語るべき新しい保守主義経済論の核がある。
第14章 象徴界の守り人たち――文化・宗教・儀礼のラカンサルヴァティズム的意義
象徴界としての文化
文化とは単なる生活様式や芸術表現ではない。ラカン的に言えば、それは〈象徴界〉の布置そのものであり、われわれが〈現実〉を経験し、欲望を組織化する構造そのものである。すなわち、文化は「意味の網の目」であり、「欲望の方向づけの秩序」である。
ラカンサルヴァティズムは、文化を可変的で流動的な消費対象としてではなく、象徴秩序の安定的な基盤として捉える。したがって、文化的保守主義は必ずしも排外的なナショナリズムではなく、「象徴的秩序の持続可能性」をめぐる倫理的問いとして再定義されうる。
宗教の機能とラカンのパラドックス
ラカン自身は宗教に対して非常に複雑な態度をとっていた。彼は神を「〈他者の他者〉」としてラディカルに構造化しながらも、宗教の社会的機能を否定はしなかった。むしろ、宗教は享楽の暴走を抑止し、法と意味の回路を保つ役割を果たすと見なしていた。
ラカンサルヴァティズムはここに一つの肯定的可能性を見る。すなわち、宗教を近代的合理性と対立させるのではなく、象徴的他者の維持装置として、また社会的〈父の名〉の代替機能として評価する。これは特定の信仰を推奨する立場ではないが、「信じることの構造」を尊重する姿勢である。
儀礼と形式の意味
現代社会において、儀礼や形式はしばしば無意味で古臭いものとして排除される。だがラカン理論から見れば、形式こそが〈象徴界〉を編成し、享楽の逸脱を制御する「防波堤」として機能する。
ラカンサルヴァティズムは、「形式の倫理」を再評価する。たとえば国家的記念日、婚礼や葬儀、あるいは日常の挨拶や敬語に至るまで、形式はわれわれの無意識を組織する装置であり、共同体の安定の前提でもある。ここに「保守主義の倫理的基盤」が見出される。
多文化主義への批判的応答
ラカン左派や進歩主義的思想は、多文化主義を「差異の平等な共存」として推奨するが、ラカンサルヴァティズムはその前提に問いを投げかける。象徴界は根源的に〈一〉ではなく、文化ごとの「欲望の布置」が異なるため、単なる混合はむしろ象徴的崩壊を招く危険がある。
われわれが必要とするのは、文化の相対化ではなく、「互いの象徴秩序への敬意」に基づく〈距離の倫理〉である。この立場は排他主義ではなく、「相互不可侵の象徴的距離」を確保することで、多文化的秩序の持続可能性を模索するものとなる。
終章 ラカンサルヴァティズムの未来へ――不可能なものにこそ忠誠を
ラカンサルヴァティズム(ラカニアン・ライト)とは何だったのか。それは、単なる政治的保守主義でもなければ、文化的懐古趣味でもない。それはむしろ、ラカン理論が孕む〈不可能性への倫理〉を、〈保守〉の言語で言い直し、社会的実践へと接続しようとする試みであった。
ラカン左派が〈欲望の解放〉を語るとき、そこにはしばしば〈享楽〉への過剰な肯定がつきまとう。だが、ラカン理論の核心は「享楽は制限されるべきである」という構造的真理にこそある。〈父の名〉の喪失を嘆くのではなく、それが不可能でありつつもなお要求されるという〈欠如の倫理〉――まさにそこにこそラカンサルヴァティズムの出発点がある。
本書を通じて描かれてきたのは、「象徴界の安定をいかにして維持し、再構築できるか」という問いに対する、多面的な応答であった。政治においては国家という虚構をあえて引き受け、外交においては〈他者〉との距離を尊重し、宗教や文化においては形式や儀礼の価値を見直す。これらすべては「不可能なものへの忠誠」――つまり、欠如を否認せず、構造の限界を引き受けるという姿勢に貫かれている。
ラカンサルヴァティズムが未来において果たすべき役割は、この姿勢を保ちつつ、変化する社会構造に応じた具体的応答を提供し続けることにある。それは時に保守主義と見え、また時に急進的とすら見えるだろう。だがその根底には常に、「不可能なものを前にして、なお思考する」という倫理的決断がある。
象徴界は壊れつつある。享楽は氾濫し、〈大他者〉は不在である。それでもわれわれは、ラカンが述べたように、「分析家は空虚な主体として、対象aの残滓の前に立ち続ける」。ラカンサルヴァティズムとは、この不可能性への敬意の別名にほかならない。
【第二部:参考文献】
橋爪大三郎『はじめての構造主義』
保阪正康『昭和史の大課題』
中西輝政『帝国としての日本』
大澤真幸『ナショナリズムの由来』
森田真生『数学する身体』
Manuel DeLanda, Assemblage Theory
Bruno Latour, Reassembling the Social
Hannah Arendt, The Human Condition
Peter Sloterdijk, You Must Change Your Life
加藤文元『宇宙と宇宙をつなぐ数学』
補章:トポロジー的転回と社会の新しい地図
――ラカンサルヴァティズムからトポロジカル・ソサエティへ――
「保守」とは、単に古いものを維持することではない。むしろそれは、変化の中で核心を見失わないための倫理的作業である。ラカンサルヴァティズム(ラカン保守主義)は、現代のポストモダン的混沌の中において、象徴秩序の再構築と倫理の起源の回復を目指す一つの企図であった。しかし、ここでひとつの限界に突き当たる。それは、「秩序(ordre)」という概念そのものが、近代国家や家父長制的な社会構造と強く結びついてきたという歴史的事実である。
では、私たちはどのようにして秩序を再定義することができるのか?
この問いは、「構造(structure)」というラカン的語彙を超えた空間的な想像力=トポロジー的視座の導入を要請する。
ラカンが後期においてフロイト理論の解釈にトポロジーを導入したのは、単なる思弁的実験ではなかった。それは、「主体」や「無意識」や「欲望」といった概念が、時間的因果関係による線的説明だけでは捉えきれないことを示していた。そしてこのことは、「社会」や「共同体」や「国家」といったマクロな構造にも同じく当てはまる。
社会はもはや「構造」ではなく、「空間」である。
これは、社会における力の配置、排除、包含のメカニズムが、線形的・階層的ではなく、ねじれ、重なり、捩れ合う多次元的トポロジーを持つことを意味する。情報空間、心理的空間、宗教的象徴空間、身体感覚の空間…これらが複雑に重なりながら、現代の社会を構成している。
ラカンサルヴァティズムは、失われた象徴秩序の再興をめざす保守主義の一形態であると同時に、その象徴秩序が根底から揺らぎ、変形し続ける空間的運動をも認識する動的な保守主義である。ゆえに、その思考は必然的に、社会そのものを「トポロジカル」に捉える視座へと接続されなければならない。
このような地平のもとに、われわれは次なる思想的冒険へと向かう。
それが――『トポロジカル・ソサエティ』である。
コメント