彼は「歌手」だった。
けれど同時に「詩人」であり、「預言者」であり、あるいは「堕天使」だったのかもしれません。
本連載では、尾崎豊という存在を、音楽だけでなく詩、思想、そして精神分析の視点から読み解いていきます。
尾崎豊という「現象」
尾崎豊がデビューした1980年代の日本は、高度経済成長を経てバブルへと向かう時代でした。
物質的には豊かでも、精神的な充足とは無縁な「都市の荒野」の中で、彼の声は異質でした。
十代の反抗を描きながら、それは単なる若気の怒りではなく、もっと根源的な問いかけ――
「愛とは何か」「生きるとは何か」「自由とは何か」を突きつけていたのです。
なぜ「堕天使」なのか
彼の歌詞には、繰り返し「堕ちてゆく」イメージが登場します。
夢に敗れ、愛に傷つき、現実に汚されながらも、それでも純粋性を守ろうとする姿。
それは、まるで天から地に落とされた天使のようです。
かつて天に属していた純粋な存在が、この世の不条理に触れながら、地上での赦しと再生を求める――
「堕天使」という比喩は、尾崎豊の詩的世界全体を貫く鍵となります。
プラトン的理想とキリスト的救済
本連載では、尾崎豊を「プラトンの語法で全ての堕天使を救おうとしたキリスト的存在」として描いていきます。
- プラトン的理想:愛、真理、自由、正義といった抽象的概念への渇望
- キリスト的救済:汚れ、傷、罪を抱えた存在を、言葉と祈りによって救おうとする姿勢
彼の歌には、理想を語る高みと、現実に膝をつく低みが同時に存在します。
この高みと低みの同居こそが、尾崎の詩的張力の源泉であり、そのことを明らかにするために、連載では次の視点を用いていきます。
次回予告
次回は、「街の風景」や「誰かのクラクション」「Teenage Blues」などの初期楽曲を通して、尾崎が見つめた都市と若者の堕落と希望について掘り下げていきます。
【補注・参考】
- 文章中で言及された歌詞は、公式歌詞サイト等にて正確な情報をご確認ください。
- 尾崎豊のアルバムや詩集に収録された言葉を、文学的・思想的視点で再解釈する試みです。
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