序章:なぜシミュレーション仮説は魅力的で、誤りなのか
現代は「シミュレーションの時代」と言われる。
私たちは仮想現実やAI、アルゴリズムに囲まれ、「この世界は本当に“実在”しているのだろうか?」という問いに魅了される。
そしてしばしば「この宇宙は高次の文明が設計した計算可能なシミュレーションに過ぎないのではないか?」という仮説に出会う。
この発想には確かに魅力がある。
現代テクノロジーの急速な進化を背景に、「あらゆる現象はコードに還元できる」「複雑な意識や生命も情報処理で再現できる」と考えるのは自然な欲望だ。
それはある意味で、世界を完全に理解し、コントロールできるという全能感に近い。
だが、ここにこそ重大な誤解がある。
「この世界は計算可能である」という信念は、計算不能なものの存在を忘却している。
数学そのものが、その誤解を最も根本から揺るがしている。
たとえば実数のほとんどは計算不可能である。
私たちはごく一部の数だけを「名前」や「計算手順」として扱えるが、実際の実数の大多数はアルゴリズムによって記述不可能なものなのだ。
それにもかかわらず、我々は「計算不可能な数」の存在を理論的に定義できてしまう。
この事実こそが、数学がシミュレーションではない何かであることを物語っている。
つまり、数学とは「計算する営み」ではなく、「正しさを感じる営み」である。
数式の背後には、計算を超えた倫理的・精神的な直観がある。
人間が「これが正しい」と確信するその瞬間、それは既に計算可能性の外にある。
本書は、この視点から出発する。
数学を「世界の再現」ではなく、世界との関係そのものの構築ととらえたい。
そして、数学の本質に「倫理」が宿ること、数学するとは倫理的存在として「応答する」ことであることを明らかにしていく。
「なぜシミュレーション仮説は魅力的で、誤りなのか」。
それは、人間が数学する存在だからである。
そして数学とは、計算ではなく、生成であり、応答であり、倫理である。
この問いを携えて、次章から思索の旅を始めよう。
第一章:数学とは何か――正しさの生成と認識
数学とは何か?
それは単なる数式や定理の集積ではなく、人間が「正しさ」を感じる、きわめて特殊な認識のかたちである。
計算や論理操作といった外面的な形式では捉えきれない、内面的な直観と確信、すなわち「これは正しい」と感じる経験――これこそが数学の本質にある。
ここでまず、「数学は言語である」という通俗的な見解に触れておこう。
数学は自然言語のように記号を用い、文法に従い、意味を伝えるという点で言語に似ている。だがそれは表層的な類似にすぎない。
自然言語において意味は文脈依存で変化するが、数学における意味は正しさへの絶対的な感度によって支えられている。
「正しいから正しい」と感じられる構造、つまり経験的根拠を超えた確信が数学にはある。
この確信は、感情でも信仰でもなく、倫理的感受性に近い。
誰かが「これが正しい」と確信するとき、それは同時に、「他者にも正しくあってほしい」と願う。
つまり、数学的直観とは、ある種の普遍的な倫理的要請を伴うものである。
ここでフッサールの現象学的数学観を参照すると、「数学的対象とは意識に現れる構成の産物であり、他者にも同様に開かれているべきもの」だとされる。
数学は単なる主観的な空想ではなく、誰にとっても妥当であることを目指す構造を持つ。
この「妥当であってほしい」という感覚――それこそが倫理の芽生えでもある。
また、数学的証明とは、命題の正しさを他者に伝えるための形式的な約束事であると同時に、他者との合意可能性を追求するプロセスでもある。
つまり、数学は孤独な計算ではなく、対話と共通理解への欲望から生まれた営みなのだ。
この視点から見ると、数学は単なる論理でも言語でもなく、「生成する正しさ」への応答の体系といえる。
数学的存在は、我々が「そうあるべきだ」と感じたときに構成され、正しさとして生成されていく。
そしてこの「生成の感覚」こそが、後に論じる倫理や人間存在との深い接点を持つ。
私たちはなぜ数学を追求するのか。
それは、「正しくあろうとする存在」である私たちの内的な欲求の表れであり、世界に対して何らかの応答を与えたいという、倫理的な衝動そのものなのだ。
第二章:数えるという行為――精神分析と数学の起源
私たちはなぜ数を数えるのか?
そして「1, 2, 3……」という行為がなぜ、普遍的な知の土台として人類全体に共有されているのか?
この問いに対して、単に数学的論理や記号操作の枠内だけでは、十分な答えを見いだすことはできない。
むしろ、ここには人間の精神の深層に根ざした動きが関係しており、それを明らかにするには、心理学や認知科学だけでなく、精神分析的な視座がどうしても必要となる。
数学が「正しさ」への感覚に支えられた営みである以上、その根本にあるのは理性の形式だけではなく、人間存在そのものの形成にかかわる感情・欲望・不安・欠如といった根源的経験なのだ。
ピアジェの構成主義と数の原初的理解
発達心理学者ピアジェは、数の概念が経験を通して徐々に「構成」されていくプロセスを描き出した。
例えば、子どもが5つのりんごを見て「5個ある」と認識するには、恒常性(りんごが入れ替わっても総数は変わらない)や順序保存といった概念が必要になる。
これは、単なる視覚的認識ではなく、世界に対する「安定した秩序」への信頼に支えられている。
ピアジェはこのような認知の構築を通して、「数とは外界の中に見出す関係ではなく、主体が構成する秩序である」と考えた。
しかし、この構成がなぜ可能なのか。なぜ子どもは秩序を求め、関係を数に変換しようとするのか?
ここでこそ、精神分析の視点が必要になる。ピアジェが見落としたのは、「秩序への欲求」が、精神発達における不安と喪失の体験から生まれてくる可能性である。
フロイトの深層――喪失と欲望としての数
フロイトの精神分析では、人間の精神は無意識的な欲望と、それに伴う喪失体験に基づいて形成される。
たとえば、乳幼児期における母との一体性の喪失は、子どもの心に欠如という原体験を刻み込む。
その欠如に対して、子どもは何かを「補う」行為を始める。
指をしゃぶる、物を集める、そして数を数える――こうした行為は、失われた対象の代替物を反復することで、心の安定を取り戻そうとする象徴的行為である。
数えるとは、「いま・ここにないものを想起し、記号として操作する行為」である。
これは物理的行動ではなく、精神的代償作用であり、欠如に応答する最初の知的操作なのだ。
このように、数とは認知以前に心の防衛機制に根ざしている。
だからこそ、数はあらゆる文化に普遍的に現れ、しかも宗教や神話にさえも現れる――それは精神の根底に関わっているからである。
ラカンの記号界――数の誕生は「他者」の導入
ラカンによれば、主体とは「象徴界(言語や記号の体系)」に投げ込まれることで初めて形成される。
子どもが「1」という数字を覚えるとき、それは単なる名前ではなく、対象の「不在」を示す記号である。
目の前にないモノを、「数」で表現することができるとき、子どもはようやく「他者の視点」を受け入れ、「言葉に頼る存在」になる。
このとき、数は単なる数量ではなく、「私と他者との関係性の仲介者」となる。
私が「3つある」と言うとき、それは他者にとっても3つであることを期待している。
ここに「正しさ」が生まれる。つまり、数は社会的合意の記号であると同時に、主体の成立そのものでもある。
ここでもやはり、数えることが数学の起源であると同時に、人間精神の根源的な転換点であることが分かる。
なぜ精神分析が必要なのか
数学は論理的だが、人間は論理だけでは動かない。
「1+1=2」がなぜ「正しい」と感じられるのか――そこには認知の構成だけでなく、欲望・不安・他者性・喪失への応答といった、深層の精神的ダイナミズムがある。
数はただの数ではない。
数とは、世界を秩序化しようとする倫理的意志であり、傷ついた主体が秩序に自らを編み込もうとする象徴行為なのである。
だからこそ、数学の本質を考えるとき、精神分析的視点を抜きには語れない。
数学とは、単なる思考の体系ではなく、「人間であることの深層構造の反映」なのである。
この章は、数学がただの知的活動ではなく、「人間精神の根底にある倫理的な欲望」から生まれていることを描き出した。
次章では、その欲望がいかにして「生成する倫理」へと展開されていくのか――ベルクソンやブラウワーの思想を手がかりに探っていこう。
第三章:生成する倫理――ベルクソンとブラウワーの思想から
これまで見てきたように、「数える」という営みには、人間精神の深層に根ざす倫理的衝動がある。
それは、欠如を補おうとする試みであり、他者と秩序を共有しようとする欲望でもある。
ここではその倫理的側面に焦点を当て、ベルクソンとブラウワーという、20世紀を代表する思想家たちの立場から「数学と倫理」の接点を探っていく。
この章のキーワードは「生成(創発)」。
既にある秩序をなぞるのではなく、新たな秩序を生み出すことこそが倫理であるという立場を、数学と人間の営みの両面から照射する。
ベルクソン――創造的進化と直観の倫理
アンリ・ベルクソンは、時間と生命の本質を「創造的生成」に見出した。
彼にとって、世界とはあらかじめ決定された構造ではなく、常に新しさを生成し続ける流れ(デュレー)である。
この流れに即した「直観的知性」が、機械的な知識を超えて、生命や倫理の本質に触れる手がかりになる。
数学もまた、そうした「生成の倫理」の一部に位置づけられるべきではないか?
公式や定理を機械的に当てはめるのではなく、創造する知性として数学を行うこと。
その瞬間、数学は倫理に変わる。なぜなら、既存のルールに服従するのではなく、自らルールを生み出すことが、倫理の本質だからである。
ベルクソンにとって「正しさ」とは、唯一の答えにたどり着くことではなく、現実の流れと同期する創造性にある。
この考えは、次に見るブラウワーの思想と深く響き合う。
ブラウワー――直観主義と主体の数学
ブラウワーは「数学的直観主義」の立場から、数学の基礎を再構築しようとした。
彼にとって数学とは、外部に存在する「真理」の発見ではなく、内的な構成に他ならない。
つまり、数学的対象はあらかじめ存在するものではなく、主体が自らの直観の中で構成するものだというのである。
この立場は、「正しさ」とは何かという問いに対して重要な視点を与えてくれる。
正しさとは論理的整合性ではなく、主体が経験的に納得し、構成できることそのものなのである。
だからこそ、計算不能な数や無限という概念に対して、ブラウワーは慎重だった――それらが主観的構成から遊離している限り、真に意味を持たないからだ。
この「構成可能性=正しさ」の原理は、倫理とも深く関係する。
倫理とは他者から与えられる規範ではなく、主体の内面から生成される実践であるべきだという、ベルクソンと同様の構造がここにもある。
「計算できること」が正しいのか?
現代のデジタル技術やAIの倫理では、「計算可能性」がしばしば「正しさ」の基準とされる。
アルゴリズムが導いた選択肢が「合理的」で「最適」だと信じられ、倫理的判断も統計や予測に依存する傾向がある。
しかし、ベルクソンやブラウワーの立場からすれば、それは倫理の死である。
なぜなら、倫理とは機械的な最適化ではなく、状況の中で新たな意味を生成することだからである。
人間が倫理的であるとは、自らの直観を信じ、他者と関係しながら新たな判断を生み出すことにほかならない。
したがって、数学における「計算不能性」とは、人間の倫理性のメタファーでもある。
我々が完全には合理化できない存在であるからこそ、そこに倫理の空間が開かれる。
生成する倫理としての数学
数学は、与えられたルールのなかで正解を出す「完成された知」ではない。
むしろ、ルール自体を再発明し、体系の限界を問い直す「開かれた営み」である。
それゆえ、数学とは正しさの生成に他ならず、常に倫理と接している。
数学するとは、考えることであり、感じることであり、何より新たな秩序を世界に開こうとする倫理的行為である。
その営みは、数式や証明の中だけでなく、人と世界の関係を再編成する深い動きとして捉え直されるべきである。
この章では、ベルクソンとブラウワーの思想を通じて、「数学とは倫理の生成である」という核心に迫った。
次章では、こうした視座を踏まえて、「なぜシミュレーション仮説は魅力的で、誤りなのか」を論じていこう。
第四章:なぜシミュレーション仮説は魅力的で、誤りなのか
私たちの世界はシミュレーションかもしれない――
この大胆な仮説は、近年のテクノロジーや哲学的議論のなかで急速に影響力を増してきた。
エロン・マスクの発言、映画『マトリックス』やメタバースの台頭。これらはすべて「現実とは演算可能なものに過ぎない」という直観を支えている。
だが、本章ではこの仮説が持つ魅力を認めつつ、その根本的な誤謬を明らかにしていきたい。
そのために私たちは、数学の本質的性質、倫理の生成性、そして人間という存在の不可計算性に立ち戻らねばならない。
魅力としてのシミュレーション仮説
シミュレーション仮説がこれほどまでに人々を惹きつけるのは、いくつかの直感的理由がある:
技術の進化:AIやコンピュータの計算能力が飛躍的に向上し、「現実そのものを再現できる」という感覚が現実味を帯びてきた。
ゲーム世界との親和性:オープンワールド型ゲームやVR技術の発展によって、「自己を持った存在が仮想空間に生きる」状況が日常化している。
哲学的快楽:デカルト的懐疑論、「脳内の現実」への志向、あるいは「神の存在」を別の形で想定できるという思考の遊戯。
こうした魅力は、世界を単純化し、安心させてくれる効果を持つ。
「すべてはシステムで説明できる」「自分の感覚はある種のプログラムである」――この考えは、現代人の不安と欲望に応答している。
だが、世界は計算できない
だが、この仮説は根本的に誤っている。
なぜなら、世界の根底にあるものは「計算」ではなく、「計算不能性」だからだ。
第1章で述べたように、数学の世界の大部分は「計算不可能な数」で占められている。
ゲーデルの不完全性定理は、あらゆる形式体系には必ず記述不能な真理が存在することを証明した。
つまり、数学ですら自らを完全に記述することができないのである。
このような世界にあって、「すべてが演算可能である」という仮定は、
物理的、論理的、そして倫理的に不可能である。
人間もまた計算できない
この議論は人間にも適用される。
人間の思考、感情、選択、倫理的判断――これらはすべて再帰的アルゴリズムでは説明しきれない。
人工知能が進化しようとも、「なぜ正しいと感じるのか」「なぜ美しいと感じるのか」という根源的問いは残る。
それは、人間が単なる入力と出力の関数ではなく、意味生成の主体であるからだ。
ここにこそ、精神分析や発達理論の視点が重要になる。
幼児が「1, 2, 3」と数を数えるとき、その背後には身体的欲望や欠如の経験がある。
世界を秩序づけたい、対象を所有したい、他者と関係したい――そうした情動の総体が数の概念を生み出す。
それは決してプログラムには還元できない、「生きた経験」からの発露なのだ。
なぜ「間違っている」と同時に「魅力的」なのか
ここで重要なのは、シミュレーション仮説が「誤っているから価値がない」のではなく、
誤っているからこそ、人間の認識の限界と欲望を映し出す鏡となるという点だ。
私たちは複雑すぎる現実に耐えられず、単純な説明に飛びつく。
そして、数式やコードに世界を還元したいという欲望を抱く。
だが、そうした還元は常に失敗する。なぜなら、私たち自身が還元不可能だからである。
計算不能性は倫理の起源
ここで、本章の核心にたどり着く。
「計算不能であること」こそが、人間の自由と倫理の根源である。
私たちが完全にシミュレート可能な存在なら、責任も自由も持ちえない。
だが、我々が予測不可能な選択を行うことができるからこそ、倫理は生まれる。
したがって、数学の中に見られる計算不能性こそが、倫理のメタファーであり、自由の証拠である。
シミュレーション仮説は、この根源的な真実を覆い隠してしまう。
このように、シミュレーション仮説は魅力的でありながら、人間の不可計算性と生成的倫理を否定するという致命的な誤りを孕んでいる。
次章では、こうした立場を踏まえて、「数学する人間」とは何か、その倫理的構造をさらに深く掘り下げていこう。
第五章:「数学する人間」とは誰か――不可計算性から倫理へ
ここまで、数学は単なる言語や記号操作ではなく、「正しさ」そのものへの問いであることを見てきた。
また、私たちが「数える」「考える」「証明する」という行為は、精神的・身体的発達と切り離せない営みであり、計算によって再現できない側面を多く含んでいる。
この章では、こうした考察の集約として、「数学する人間」という概念に迫ってみたい。
「数学する人間」は自然の一部か、それとも自然を超えるか
数学者は自然現象をモデル化する。数理物理学、統計学、計算科学……
その営みは一見、自然の記述に従属するように見える。
しかし、自然が人間の思考に従属する瞬間もある。
新しい数の概念、抽象的な構造、直観的な論理の導入――これらは自然に存在しない。
ここで浮かび上がるのは、人間は自然の中にありながら、それを超える「第二の自然」を生み出す存在であるという事実だ。
この点で、ヘルマン・ワイルが抱いた問いは鋭い:
「人間は数学的真理を発見するのか、それとも創造するのか?」
その答えはおそらく、そのどちらでもある。
数学とは、世界を記述する手段であると同時に、世界に意味を与える構造の創出でもある。
不可計算性が開く「倫理的存在」としての人間
第一章・第四章で見たように、計算不能な数学的対象の存在は、「すべてを計算できる」という信仰に打撃を与える。
だが、それは同時に、人間が倫理的存在であるための条件でもある。
もし人間が完全に予測可能なアルゴリズムなら、「正しさ」も「誤り」も消える。
「責任」「選択」「葛藤」――倫理の根幹が消滅する。
だが、実際には私たちは予測不能な存在であり、自らの行為に対して責任を問うことができる。
それは、私たちが「正しさ」を内在的に問い続ける存在=数学する人間であるからにほかならない。
記号を超えるもの――ベルグソンとブラウワーからのヒント
数学的営みは記号操作であると同時に、意味生成の運動でもある。
ベルグソンの「持続」、ブラウワーの「直観」は、ともに時間的で、個人的で、計算に還元されないものを重視した。
「数学とは、記号の操作ではなく、意識のうちに現れる確信である」
(ブラウワー)
ベルグソンは時間を「空間的に分割可能なもの」ではなく、「質的な持続」として捉えた。
この考え方は、数学の本質を記号操作から解放し、倫理的・生成的なプロセスとして捉える道を開く。
「数学する人間」は倫理を生成する存在
こうして浮かび上がるのは、数学と倫理が深いところで交差するという構図である。
倫理とは何か?それは、「正しさ」をめぐる不断の問いのことだ。
そして数学とは、正しさを形式化し、構造化し、探究し続ける営みだ。
だからこそ、数学する人間は、倫理を生成する存在なのである。
この章では、「数学する人間」とは何かを考察してきた。
彼/彼女は、自然の中にいながら自然を超え、計算不能性の中に意味と正しさを見出す存在である。
そしてその営みは、単なる知的活動ではなく、倫理的実践としての意味を帯びている。
次章では、この視点をさらに深めて、「計算不能な世界における倫理とは何か」という核心へと迫っていこう。
第六章:計算不能な世界における倫理の起源
ここまで、「数学する人間」としての私たちは、計算不能な真理を生きる存在であることを確認してきた。
この最終章では、そうした人間がどのようにして「倫理」を持つに至るのか――
すなわち、計算不能な世界のなかで、なぜ、どうして倫理が生成されるのかという問題に焦点を当てる。
形式倫理ではなく「生成する倫理」へ
近代倫理学の多くは、道徳法則の体系化、行為の結果の計量化、規則の一般化に向かってきた。
カントの定言命法や、功利主義の効用原理がその代表だ。
だが、これらはいずれも「世界が計算可能である」という前提に立っている。
「もし◯◯ならば××すべし」といった形式的な条件設定の上に、倫理が乗っているのだ。
しかし、私たちが生きる世界は、もはやそのような計算可能な図式に収まらない。
選択肢が無数に広がり、因果が見えず、正解が存在しない局面で、なおも人は選択し、責任を負う。
そのとき、必要とされるのは定型化された倫理ではなく、生成する倫理である。
ベルクソン:倫理は「持続」から生まれる
アンリ・ベルクソンは『道徳と宗教の二源泉』で、
機械的・集団的な「閉じた倫理」と、創造的で個別的な「開かれた倫理」を区別した。
前者は慣習や規則に従う倫理であり、後者は新たな状況に応答する、生命的・創造的な倫理である。
「義務とは、過去の道徳的判断を繰り返すことではない。
真に倫理的であるとは、状況に即して自ら判断を生成することである。」
これはまさに、計算不能な状況においてこそ発動される倫理である。
つまり、「どの選択肢が正解か」ではなく、選択そのものが新たな価値を生む場となる。
ブラウワー:直観主義と倫理の起点
一方、数学における「生成する倫理」の思想は、
L.E.J.ブラウワーの数学的直観主義の中にも見出される。
彼は数学を、論理や記号ではなく、意識内の原初的な「構成」の力と捉えた。
自然数すら、あらかじめ存在するのではなく、「1、2、3…」と意識が構成していく過程にあるという。
このときの「構成する力」は、倫理的判断のそれと酷似している。
すなわち、正しさとは与えられるものではなく、生きた意識の中で生成されるものである。
計算不能性がもたらす「判断の場」
シミュレーション仮説のように、「世界はプログラムである」と考えれば、
判断はすでに定義された規則に従って行うだけになる。そこに自由も責任も生まれない。
しかし、世界が計算不能であるとは、常に「選ばなければならない」状況が訪れることを意味する。
選択肢に正解がないとき、私たちは初めて「自らの倫理」に従う。
そしてその判断が、新たな世界を形作る。
この構図は、数学の世界でも同様だ。
ゲーデルの不完全性定理が示すように、すべてを証明し尽くすことはできない。
だからこそ、数学者は新たな公理を選び、体系を構築する。
倫理と数学の構造は、ここでも交錯している。
「数学する人間」の未来
最後にもう一度、「数学する人間」とは誰かを問いたい。
それは、計算できないものを前にしても思考を止めず、
正しさを問い、倫理を生成し続ける存在である。
数学が人間の内面から始まるのだとすれば、
その数学を生きることそのものが、倫理的である。
私たちはただ計算するのではない。
私たちは、「計算不能な世界」を生き抜くために、数学するのである。
結語:なぜ哲学書として数学を書くのか
本書『数学する人間――計算不能な世界と倫理の起源』は、
数学をただの理論体系としてではなく、人間の倫理的営みの核心として位置づけたものである。
数を数えること、正しさを求めること、証明を探すこと。
そのすべてが、「自分とは何者か」「世界とどう関わるか」という問いと地続きにある。
計算可能性にすべてを還元しようとする現代の思考に抗し、
不完全で、予測できない世界の中で、私たちは数学を通じて正しさと自由を模索する。
それが、「数学する人間」の宿命であり、希望である。
【引用・参考文献一覧】
- 加藤文元『数学する身体』岩波書店、2017年。
- 森田真生『数学の贈り物』ミシマ社、2019年。
- クルト・ゲーデル『ゲーデル 不完全性定理』講談社学術文庫、2006年。
- フッサール『論理学研究』みすず書房、1974年。
- ヘルマン・ワイル『数学と自然科学の哲学』みすず書房、1976年。
- シェリング『自然哲学の体系』法政大学出版局、1997年。
- スピノザ『エチカ』岩波文庫、1951年。
- カール・ポパー『開かれた社会とその敵』岩波書店、1961年。
- ジル・ドゥルーズ『ベルクソンの哲学』河出書房新社、2002年。
- L.E.J. ブラウワー『直観主義の立場から見た数学』(From “Collected Works”), North-Holland, 1975年。
- アンリ・ベルクソン『創造的進化』白水社、2005年。
- ジークムント・フロイト『快感原則の彼岸』岩波文庫、2005年。
- ジャン・ピアジェ『児童の精神の誕生』みすず書房、1969年。
- ジャック・ラカン『エクリ』岩波書店、2001年。
- マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』講談社、2018年。
- デイヴィッド・チャーマーズ『意識する心』白揚社、1999年。
- ニック・ボストロム “Are You Living in a Computer Simulation?”, Philosophical Quarterly, Vol. 53, No. 211 (2003), pp. 243-255.
- エドワード・フレッドキン “Digital Philosophy”, International Journal of Theoretical Physics, Vol. 42, No. 2 (2003).
- スティーヴン・ウルフラム『A New Kind of Science』Wolfram Media, 2002年。
- マックス・テグマーク『数学的宇宙仮説』講談社ブルーバックス、2015年。
- イマヌエル・カント『純粋理性批判』岩波文庫、1987年。
- ジル・ドゥルーズ『差異と反復』河出書房新社、2007年。
- ジャック・デリダ『声と現象』法政大学出版局、1982年。
- ハインリヒ・リッケルト『価値の哲学』講談社学術文庫、1987年。
- ジョージ・カントール『無限論』講談社学術文庫、1993年。
- ポール・ベナセラフ『哲学的問題としての数学的真理』(Philosophical Review, 1973年)。
- ライプニッツ『単子論』岩波文庫、1977年。
- ルドルフ・シュタイナー『神智学』筑摩書房、1999年。
- W.V.O. クワイン『論理的観点から』みすず書房、1974年。
- トマス・クーン『科学革命の構造』みすず書房、1971年。
- マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』ちくま学芸文庫、2003年。
- ハンス・ゲオルク・ガダマー『真理と方法』法政大学出版局、1986年。
- フランシス・ベーコン『新機関』岩波書店、1973年。
- 田中泯『場踊り』平凡社、2007年。
- 山口昌男『文化と両義性』中公文庫、1991年。
コメント