第一章 ラカニアン・レフト批判と〈法〉の再評価
1.1 ラカンの政治的運用――左派における受容史
ジャック・ラカンの精神分析理論は、1980年代以降、とりわけジジェク、ルクラウ、マフレー、そしてスタヴラカキスといった思想家によって、いわば〈左派的政治思想の武器〉として受容された。彼らは「主体の分裂」「欲望の構造」「享楽の回路」といったラカン用語を、アイデンティティ政治、民主的アゴニズム、あるいはヘゲモニー闘争へと接続しようとしたのである。
こうしたラカニアン・レフトは、「構築される主体」を社会的闘争の担い手と見なし、〈象徴秩序〉の可塑性を強調しながら、権威・制度・法に対してラディカルな変革可能性を主張する傾向を強めていった。
1.2 享楽の解放と〈法〉の解体
だが、ここに決定的な問題がある。ラカンが繰り返し強調したのは、〈法〉が単なる抑圧ではなく、享楽の無制限な増大から主体を守る「象徴の防壁」であるという事実だった。ラカニアン・レフトはこの点を軽視し、主体を欲望の解放=政治的解放の担い手として美化するあまり、「名-の-父」や「大文字の他者」といった象徴的制約の構造を、古い権力の名残として誤認している。
とくにスタヴラカキスは、民主主義を「不可能性の政治」として理想化するが、その背後には「享楽を拒否する法=抑圧の装置」という一面的な図式が透けて見える。またジジェクにおいては、享楽の転倒的使用(例えば暴力やナショナリズムへの接続)を通じた政治戦略が語られるが、そこでもラカンの倫理的立場――享楽の制御と責任――はしばしば脇に置かれている。
1.3 「ラカン保守主義」の立場から
ラカンサルヴァティズム(ラカン保守主義)は、このような〈法〉の軽視、象徴秩序の溶解的な操作、享楽の過剰な政治化に異議を唱える。象徴秩序とは、単なる構築物ではない。むしろそれは、個々の主体を社会の中で位置づけ、意味を与える無意識的構造そのものであり、それを否定することは、主体そのものの不安定化を招く。
ラカン自身が繰り返し強調したように、「欲望には秩序が必要である」。そして〈法〉とは、欲望と享楽を意味的構造の中に繋ぎとめる、社会的かつ倫理的な必要条件なのだ。
1.4 享楽の制御と倫理的主体の形成へ
ラカンサルヴァティズムの出発点は、享楽への欲望が制御を必要とするという前提である。その制御は、抑圧ではなく、むしろ倫理的責任の空間を開く。〈法〉とは主体を縛るものではなく、欲望を言語化し、関係の中に位置づける象徴の制度である。この視点に立てば、「父の名」によって構成される象徴秩序の再評価こそが、現代の政治的空洞を埋める手がかりとなる。
第二章 ラカンと保守思想――秩序、伝統、〈法〉の精神分析的再定位
2.1 「保守主義」の核心――変化への慎重な姿勢
「保守主義」とは何か。それは単なる古い制度や伝統の盲目的な維持ではない。むしろ保守思想の本質は、人間存在の有限性と社会秩序の脆弱さに対する深い認識に根差している。エドマンド・バークが革命を否定し改革を肯定したように、保守主義とは変化の必要性を認めながらも、それを〈社会の有機的な統合性〉の中で慎重に進めようとする倫理的な態度なのである。
この「慎重な改革」という理念は、ラカン的精神分析における「主体の不完全さ」や「象徴秩序の不全性」と深く共鳴する。すなわち、主体は常に分裂しており、全体的な統一を持たない。この「裂け目」こそが、逆説的に〈法〉や〈名-の-父〉といった象徴的支柱の必要性を浮かび上がらせるのだ。
2.2 象徴秩序と共同体の継承
保守主義が重視する「伝統」や「共同体」といった価値は、ラカン理論においては〈象徴秩序〉の歴史性として再解釈できる。人は無意識のうちに、言語とともにその文化的コード=〈他者〉の言説を内面化することで主体化される。したがって、象徴秩序の断絶は、単なる制度的変化ではなく、主体そのものの不安定化と深く結びつく。
ラカンサルヴァティズムは、保守主義の「継承」という概念を、単なる懐古ではなく〈象徴の連続性〉として捉える。そしてこの連続性の中で、〈名-の-父〉を通じて享楽の抑制と欲望の指向性が与えられるという、倫理的秩序の構築を擁護する。
2.3 ラカンの〈法〉と「国家」
ラカンがたびたび言及した〈法〉は、国家権力の装置や暴力装置ではなく、象徴のネットワークとしての〈大文字の他者〉の支えである。つまり、国家とは〈法〉の場を保証する象徴的構造として、享楽の暴走を制限し、社会的意味を生成する役割を担っている。
ラカンにおいて、「法を犯す者」こそが法の存在を最も深く示すように、〈法〉は常に不完全でありながらも、欲望を組織し共同体を可能にする場である。この観点から、国家の制度的正統性は、単なる契約によるものではなく、〈象徴の場〉としての深層構造に基づいて再評価されるべきである。
2.4 保守主義のラカン的転位
以上を踏まえると、ラカンサルヴァティズムとは、単なる思想の結合ではなく、ラカン理論によって保守主義の倫理的基盤を再構築する試みと位置づけることができる。すなわち:
人間の不完全性=主体の分裂
社会秩序の脆弱さ=象徴秩序の不全性
秩序の必要性=〈法〉の欲望への介入
伝統の継承=〈大文字の他者〉の語り直し
ラカンサルヴァティズムは、ラカン理論における「不可能性」「欠如」「欲望の構造」と、保守思想の「継承」「秩序」「責任」とを媒介することで、享楽社会の行き詰まりを乗り越える新たな思考の可能性を提示するのである。
第三章 〈父〉の名の復権と家族の再定位――ポストモダンの享楽社会に抗して
3.1 享楽社会と家族の崩壊
現代社会において家族の形は大きく揺らいでいる。リベラリズムや個人主義の台頭は、「選択の自由」を掲げて家族を一つのオプションと化し、性的アイデンティティや生殖技術の多様化が、父母という枠組みすら相対化してしまった。しかしラカン的観点から見ると、この現象は単なる社会進歩ではなく、〈法〉=〈父〉の名の消失というより深刻な構造的危機を意味する。
ラカンが「〈父〉の名」(Nom-du-Père)として定式化した象徴的父性は、欲望を秩序化し、享楽を制限する機能を担う。それは実際の父親の存在というよりも、象徴界における律法的な位置づけであり、子どもが社会化されるうえで不可欠な機構である。この機能の失効がもたらすのは、欲望の宙吊りと享楽の暴走、すなわち精神的・倫理的無秩序である。
3.2 〈父〉の不在と精神病の構造
ラカンは、精神病を〈父〉の名の排除(forclusion)と結びつけている。象徴的父性が機能しないとき、主体は欲望を定位できず、〈他者〉との関係に破れを生じ、享楽の「幻聴」や「迫害的確信」が生まれる。現代の若者の間に広がる自己同一性の危機、疎外感、対人不安などは、まさにこの〈父〉の名の不在による「象徴界の破綻」として読みうる。
ラカンサルヴァティズムは、この構造的な危機を政治的・社会的水準に引き上げて捉える。すなわち、〈父〉の名を機能させる制度(家族・教育・国家)が崩壊したことによって、象徴秩序そのものが揺らぎ、享楽が横溢する社会が形成されたのだ。
3.3 ラカンサルヴァティズムの家族論――再政治化される〈父〉
ここでラカンサルヴァティズムは、〈父〉の名の復権を社会的課題として捉え直す。これは単に伝統的な家族形態を礼賛するのではなく、〈父〉という象徴的機能をいかにして再設定しうるか、という問いである。すなわち:
〈父〉を国家的象徴として制度化すること(憲法、法律)
教育を通じて〈名-の-父〉の欲望の倫理を教えること
家族を象徴秩序の「中継点」として再評価すること
またこのような家族観は、ジェンダー論やLGBTQ+の権利と緊張関係を孕むかもしれないが、ラカンサルヴァティズムはその緊張自体を象徴界の問題として承認し、安易な相対主義ではなく倫理的選択を要請する。
3.4 「新たな父性」の可能性
重要なのは、ラカンサルヴァティズムが求める〈父〉が、「強権的な父」ではないということだ。それはむしろ、自らの享楽を引き受けつつ、子どもの欲望を他者の法に結びつける存在、すなわち「象徴への架け橋」としての父である。
この「新たな父性」は、家族だけでなく、国家のリーダー像にも通じる。倫理的責任を担い、享楽を制限する者――それは象徴界の新しい支柱となりうる。
第4章:象徴の断絶と〈他者〉の死――歴史の忘却に抗して
はじめに――歴史なき主体
現代社会における主体の根源的な変容は、単にアイデンティティの混乱にとどまらず、〈象徴界〉の断絶に起因する〈歴史の喪失〉という深刻な事態を引き起こしている。ここで言う「歴史」とは、単なる年表的記述ではなく、自己が〈他者〉との関係の中で生成され、受け継がれる過程そのものを指す。ラカンサルヴァティズムは、この断絶に対して保守主義的立場から応答する試みである。
ラカンと歴史――時間性の三重構造
ラカンの理論には、象徴界における時間性として「未来から過去への逆転的構造」がある。すなわち、過去の出来事は、後の出来事によって「後付け的に意味づけられる」(après-coup)。この観点からすれば、歴史とは固定された真理ではなく、主体の形成に伴って絶えず「再編成される語り」なのである。ラカンサルヴァティズムは、ここに保守思想と通じる契機を見出す。すなわち、ある過去に忠実であるとは、それをただ記憶することではなく、「現前しない過去に対して語り続ける」という倫理的態度を含んでいる。
〈他者〉の死と記憶の喪失
現代的主体は、「絶対的な他者」(l’Autre)との関係の消滅と共に、自らの欲望の起源すらも見失っている。SNS的言語空間の中で、自己はもはや〈他者〉の眼差しを媒介にして形成されることなく、アルゴリズムと「いいね」によって循環される自閉的な享楽へと落ち込んでいる。これは「〈他者〉の死」であり、言い換えれば、象徴界が果たすべき教育・文化・宗教的媒介機能の崩壊である。ラカンサルヴァティズムは、この〈他者〉の死を単なる終焉と捉えるのではなく、「失われた他者」としての歴史・伝統への再接続を目指す。
歴史的主体の回復と「ナラティヴの保守」
保守主義的倫理とは、歴史の単なる懐古ではなく、断絶の後にも「意味を織り直す意志」である。象徴界の崩壊後にもなお語られ得る物語の可能性――これをラカンサルヴァティズムは「ナラティヴの保守」と呼ぶ。それは歴史の再魔術化ではなく、〈法〉と〈禁忌〉を媒介に、過去の死者との連帯を回復し、〈共同性〉を新たに構築しようとする営みである。
ラカニアン・レフト批判――〈断絶〉の過剰な肯定
ラカニアン・レフトの多くは、〈主体の分裂〉や〈象徴界の不全〉を、「ラディカルな開放性」や「抵抗の契機」として積極的に評価する。だがそれは、〈傷ついた他者〉をケアする責任を放棄し、〈歴史的傷跡〉を享楽的に再演するだけのポストモダン的パフォーマンスへと堕しやすい。ラカンサルヴァティズムは、象徴の断絶を倫理的な問いとして捉え直し、〈法〉と〈記憶〉に基づく歴史的回復をこそ志向する。
第5章:国家と主体の交差点――「幻想」としての国民
はじめに――国家という象徴装置
国家とは単なる政治的制度ではなく、主体の想像的・象徴的秩序を構成する巨大な装置である。ラカン的観点からすれば、「国家」や「国民」という概念は、実在的なものではなく、〈他者〉の言説によって構築された「幻想」にすぎない。しかし、その幻想が〈主体の安定〉に不可欠である以上、ラカンサルヴァティズムは国家の解体ではなく、むしろ幻想の構造を理解した上での再強化=倫理的再基礎化を目指す。
ラカンにおける「幻想」概念と国家
ラカンにおいて幻想とは、現実界と象徴界の間の裂け目を埋め、主体に欲望の「一貫性」を与える装置である。国家とは、主体に「われわれ」という枠組みを提供し、〈他者〉との関係に方向性を与える象徴的名指し(le Nom-du-Père)の一形態と見ることができる。その意味で、国家は幻想であるがゆえに機能し、また幻想であるがゆえに解体されうる。
国民形成と〈去勢〉
国家が「国民」を生み出すプロセスは、ラカン的には〈去勢〉の操作として読むことができる。すなわち、個人は「自らのすべてを支配しない」ことを認め、国家という〈他者〉の法を引き受けることによって「国民」として位置づけられる。ラカンサルヴァティズムはこの〈去勢の契機〉を尊重し、国家の根拠を幻想ではなく〈法の象徴性〉に求め直す。
リベラリズム・グローバリズム批判と共同性の再定義
リベラルな国家観は、国家を「個人の自由を保障する手段」としてのみ捉え、幻想性や共同幻想の形成機能を否認しがちである。グローバリズムはそれをさらに推し進め、「国家」の象徴的機能を剥奪し、主体を欲望の漂流者と化す。ラカンサルヴァティズムは、国家という幻想が失効した後の空洞に、ナショナリズムではなく、象徴的な〈共同性の倫理〉を再構築することを提唱する。
ラカニアン・レフト批判――国家なき主体の幻想
ラカニアン・レフトの一部は、国家を抑圧の装置と見なすあまり、〈他者〉なき主体の構想へと傾斜している。だが、それは結果的に、欲望の宙吊り状態、政治的無気力、共同性の崩壊をもたらす。国家が象徴的秩序の核として果たす倫理的・想像的役割を無視する限り、いかなる政治的実践も根を持たない。ラカンサルヴァティズムは、国家という〈幻想〉の構造を解体ではなく、精緻化・倫理化することで、新しい共同体像を提示する。
第6章:伝統・儀式・象徴の力学――共同体の形式
伝統と象徴界――失われた〈法〉の言葉
ラカン理論において、象徴界は「法と言語の秩序」であり、主体の位置づけと欲望の構造化を担う。伝統とは、この象徴界の時間的厚みであり、歴史を通じて繰り返し語られ、実践される〈法の語り〉に他ならない。ラカンサルヴァティズムは、こうした伝統の機能を単なる保守主義的懐古としてではなく、主体の象徴的安定に寄与する倫理的構造と捉える。
儀式と反復――欲望の社会的条件付け
儀式は単なる形式的な慣習ではなく、〈他者〉の欲望を読み取り、自らの欲望を調律する場である。婚姻・葬儀・祝祭などの儀礼は、ラカンの言う「反復強迫」の社会的構造化であり、欲望を無秩序な衝動から救い出し、他者との関係において意味づける。ラカンサルヴァティズムは、こうした儀式的反復を「象徴界の倫理」として再評価する。
象徴の名残としての「国体」
「国体」という語は、戦後の日本ではしばしばタブー視されてきたが、ラカン的観点からは、これは共同体の〈名の父〉としての機能を果たす象徴構造の核である。ラカンサルヴァティズムにおいては、「国体」は国家や統治体制を超えた象徴的継承の名称であり、それを単に権威主義的装置としてではなく、主体を包摂する〈象徴の核〉として再解釈する。
ラカニアン・レフト批判――「脱構築」と空虚な自由
ラカニアン・レフトはしばしば伝統や儀式をイデオロギーの残滓として解体しようとする。しかし、それは象徴界の空洞化を促進し、結果として欲望の脱線と〈享楽〉の無秩序な拡散を招く。主体は〈法〉なき自由の中で崩壊し、反社会的衝動に回帰するリスクにさらされる。ラカンサルヴァティズムは、伝統を「規律」ではなく「倫理」として捉えなおし、象徴界の力学を守る立場に立つ。
第7章:信仰と公共性――超越性と倫理の再定位
信仰と〈大他者〉――超越性の構造的意義
ラカン理論において、〈大他者〉は単なる社会的規範ではなく、言語と欲望の根源にある構造的な「超越項」である。それは絶対者でなくとも、「あると想定されること」によって機能する〈名の父〉的存在である。ラカンサルヴァティズムは、〈大他者〉のこの構造的役割を重視し、信仰とは、この〈他者〉に対する象徴的忠誠、つまり倫理的応答であると理解する。
今日のリベラルな公共空間では、〈他者〉はしばしば無化され、「信仰なき信仰」が支配する。だが、主体の倫理的統合にとって、超越性の想定は不可欠である。ラカンサルヴァティズムにとって信仰とは、宗教的ドグマへの服従ではなく、〈他者〉を通じて自我の無根拠性を認める姿勢である。
公共性の病理――世俗化と享楽の過剰
現代の公共空間は、〈他者〉の失墜とともに「享楽の民主化」が進み、主体の倫理的姿勢を蝕んでいる。SNS空間に見られる“無根拠な承認欲求”や“無限の選択肢の消費”は、公共性の幻想のうちに主体を空洞化させる。
ラカニアン・レフトはこのような享楽的脱構築を理論的に肯定しがちであるが、それは公共性の崩壊と信仰の消尽につながる。ラカンサルヴァティズムは、公共性を「倫理の場」として回復する必要性を訴える。
信仰の再政治化――ラカンサルヴァティズムの宗教観
ラカンサルヴァティズムにおける信仰は、排他的宗派性ではなく、「超越性への応答能力」としての公共的資源である。宗教はここで文化的伝統と象徴秩序の担い手として、共同体的記憶と倫理の深層を支える。国家神道の復活のような政治的宗教化ではなく、象徴界の倫理的再構築としての“静かな信仰”の可能性が重視される。
これは単に宗教を肯定することではなく、公共性における〈超越的他者〉の役割を再定義する試みであり、ラカン理論の「無意識は他者の言説である」という命題を、共同体倫理に転化させる方向性である。
第一部 結び:理念から実践へ
こうして我々は、ラカン理論を基盤としつつ、保守思想の文脈において倫理・主体・公共性を再構成する「ラカンサルヴァティズム」の基本構造を描き出した。これは過去への回帰ではなく、崩壊しつつある現代社会の根底に、いま一度〈他者〉の名を呼び戻す試みである。
次なる課題は、この思想が現実の諸制度、社会、文化、国家にいかなる形で応用可能であるかを問うことである。すなわち、理念から実践へ。ここから始まる第二部では、ラカンサルヴァティズムが孕む可能性と困難に、現代世界の具体的課題を通して向き合っていく。
【第一部:参考文献】
Jacques Lacan, Séminaire XVII: L’envers de la psychanalyse(欲望と享楽の理論)
Jacques-Alain Miller (ed.), Lacan Redivivus
Slavoj Žižek, The Sublime Object of Ideology
Todd McGowan, The Real Gaze
Edmund Burke, A Philosophical Enquiry into the Origin of Our Ideas of the Sublime and Beautiful
Michael Oakeshott, Rationalism in Politics
上野修『ラカンの倫理学』
斎藤環『社会的ひきこもり』
コメント