恋愛は不思議だ。与えること、奪うこと、信じること、疑うこと。
私たちはなぜ、そんなにも不確かなものに心を委ねるのか。
本稿では、ラカン精神分析の視点を通して、「恋とは何か」という問いを真正面から考えてみたい。
序章 恋愛は語りうるか?
恋愛は「自然なもの」だと信じられてきた。
しかし、ラカン的視点から見れば、恋愛とはむしろ「言語的な構築物」、すなわち象徴秩序の中で形作られるものである。
それは、生物学的な性欲でも、個人の感情でもなく、すでに語られ、文化によって組織された関係のかたちだ。
ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」と述べた。
つまり、恋愛もまた、言語によって構造化され、語ることでしか存在し得ない。
だからこそ、それは逆説的に、「語りえないもの」としても姿を現す。
この観点に立つなら、恋愛もまた、言語によって構造化され、語ることでしか存在し得ない。
だからこそ、それは逆説的に、「語りえないもの」としても姿を現す。
たとえば、「男の下半身」を“ムスコ”と呼ぶ日本語の婉曲表現。
これは言語によって男性器を擬人化=象徴化している例である。
しかし、“ムスメ”という表現は女性器には適用されない。
なぜか?──それは、語るという行為そのものが、ファルスの論理に基づいているからである。
第一章 恋愛は所有できるのか?
恋愛関係をめぐって、私たちはしばしば「誰のものか」という言い方をする。
「あの人は私の彼氏(彼女)」という言い回しに見られるように、恋愛は所有の言語を通して語られる。
では、恋愛とは本当に「所有可能なもの」なのだろうか?
ラカンのいう「象徴化」とは、言語によって何かに名を与えること、すなわち命名することに等しい。
命名とは、事物を一つの意味秩序に回収し、他者との差異によって位置づける行為である。
たとえば「ペニス」が「ムスコ」と呼ばれるとき、それは象徴化=擬人化によって命名され、所有可能なものとなる。
しかし、女性器にはこれに相当する明示的な呼称がない。
「ムスメ」という呼称は定着しておらず、女性器はしばしば隠喩や婉曲表現で語られる。
つまり、命名が所有と結びついているとすれば、女性器は象徴秩序からすり抜ける存在として現れる。
そのため、女性器は「共有される」幻想を生む。
売春、キャバクラ、風俗、アイドル、配信者…現代の恋愛ビジネスの多くが、この象徴化されない器官に基づいて構築されている。
言い換えれば、恋愛とは、所有できないものをあたかも所有したかのように錯覚させる幻想装置なのだ。
第二章 象徴化されない女性器
男性器は「ムスコ」と呼ばれ、名を与えられることで象徴化=命名の対象となる。
これは、親が子どもに名前をつけるような関係──すなわち、命名者=所有者という権力構造を前提としている。
対して女性器は、命名の外部に置かれている。
あからさまに語られることはなく、直接的に名指される機会はほとんどない。
むしろ、「語られないこと」「言い換えや隠喩によってしか現れないこと」こそが、その象徴的位置である。
ここに、ルース・イリガライが喝破した問題がある。
「女性は存在しない(la femme n’existe pas)」という言い回しは、単なる虚無主義ではない。
むしろ、「象徴秩序の中に“女性”は表象されえない」という構造的欠如を意味しているのだ。
そしてこの欠如こそが、ラカンのいう「対象a」としての女性、すなわち他者の享楽へと向かわせる原動力となる。
恋愛が常に「わからなさ」「捕まえがたさ」「喪失の予感」を含んでいるのは、象徴化されない器官をめぐる営為であるからだ。
恋とは、語れないものをめぐって語ろうとする営みである。
そして、語れないものが語られるとき、そこには常に「症状」が現れる。
第三章 「与えること」の倒錯
「人類最古の職業は売春である」と言われることがある。
この言葉の真偽はともかく、少なくとも恋愛が社会制度と市場経済の中で商品化される対象であったことは間違いない。
現代において、恋愛は「疑似恋愛」として機能している。
アイドル、配信者、キャバ嬢、AV女優──彼女たちは、手の届かない関係性をあたかも個人的なもののように錯覚させる商品である。
そこには、評価・フォロワー数・ランキング・投げ銭といった「象徴的数値」が横たわっている。
このように、象徴化できない対象(=女性器)を、象徴化可能なもの(=数字)へと翻訳しようとする運動こそが、恋愛ビジネスの本質である。
そしてこれは、ラカンの言う「愛とは、持っていないものを与えることである」という定式の逆証明にあたるだろう。
恋愛ビジネスにおいては、愛は「与えること」が前提である。
好意・プレゼント・お金・時間――それらはすべて、所有を通じて関係を演出する手段である。
だがそこには、常に一方的な幻想がまとわりついている。
恋愛とは、「所有した」と思い込ませることによってのみ成立する、疑似的な贈与の回路なのである。
第四章 嫉妬と享楽の構造
一般的には「女性は嫉妬深い」と言われることが多い。
しかし、ラカン的視点から見ると、嫉妬とはむしろ男性的な情動である。
というのも、男性は象徴化=命名を通じて「所有の幻想」を維持しようとするため、それが脅かされることに対して強く反応するからだ。
例えば、他者の視線や評価が自分の「彼女」に向けられるだけで、男性は不安を抱く。
それは、彼女を所有しているという前提=ファルス的幻想が、他者の享楽によって破られるからである。
対して女性の嫉妬は、所有を失う不安というよりも、「自分が“選ばれなかった”こと」への反応であることが多い。
そこには、享楽の対象として自分が意味づけられていないという象徴的喪失の感覚が含まれている。
嫉妬とは、「他者が享楽している」という幻想に対する反応である。
そして恋愛における享楽とは、決して主体のものでなく、他者の場にこそ現れる。
すなわち、私たちは「他者の享楽をめぐって苦しむ」のであり、「自分の愛が足りないから苦しむ」のではない。
この構造を理解すると、恋愛の苦しみは自己責任ではなく、構造的症状であることが見えてくる。
第五章 恋は症状である
ラカンは言う。「真理は姿を現さない。ただし、症状として現れる」と。
この言葉を恋愛に当てはめれば、恋とは症状である、という逆説が導かれる。
恋をしているとき、人はしばしば「自分ではない何か」に駆り立てられる。
理性とは異なる情動、思考の反復、身体の緊張、言葉の逸脱――それはまさしく、無意識の表出そのものである。
ラカンによれば、無意識は「言語のように構造化されている」。
つまり、私たちが恋を語ろうとするとき、そこにはすでに“他者の言葉”が入り込んでいる。
恋文も、告白も、ポエムも、どこかで誰かが語った言葉の引用でしかない。
それでも、私たちは恋を語ろうとする。
語りえぬものを語ろうとする衝動──この滑稽なまでの執着こそが、恋という症状の本質である。
そして、症状であるがゆえに、恋はいつか終わる。
症状の根にある「空虚=欲望の穴」が消えない限り、新たな恋という症状がまた立ち上がる。
だからこそ、恋は美しく、苦しく、繰り返されるのだ。
補章 所有できないものをめぐる倫理
「命名とは、支配である」。
それはペットに名を与える行為に始まり、国家による戸籍登録、あるいは恋人を「私の彼女」と呼ぶことにまで至る。
だが、そもそも女性器は名づけられない。
男性器が「ムスコ」と呼ばれ象徴的地位を得る一方で、女性器は言及を避けられ、婉曲に語られる。
ラカンにおける「女性とは存在しない」とは、この象徴秩序への不在を示している。
ここで私たちは、問い直さねばならない。
命名できないもの、語れないものを前にして、私たちはどのような倫理を持ちうるか?
それは、「所有しない倫理」である。
与え、開き、触れ、離れる。
そのすべてが享楽の外部において起こる。
愛とは、所有を放棄する勇気に他ならない。
そしてその放棄こそが、恋愛の不可能性と向き合う唯一の態度である。
あとがき 恋愛とは不可能性の名のもとに生きること
本稿『持たざる者たちの贈与――恋愛という名の症状』は、ラカンの精神分析理論に立脚しつつ、
恋愛を単なる感情や関係性ではなく、構造としての症状として捉える試みである。
恋愛は、しばしば人間の尊厳や自己像を破壊する。
それは、語ることができない対象=女性器=享楽の穴を巡って、ファルス的象徴秩序が崩れかけるからである。
その危うさゆえに、恋愛は常に揺らぎ、また再生される。
「愛とは持っていないものを与えることである」
この命題の逆証明として、「与えることでしか愛は象徴化され得ない」という構図が本書の中核である。
わたしたちは、与え、失い、また与えようとする。
その繰り返しの中にしか、恋愛の倫理は存在しない。
恋愛とは、不可能性の名のもとに生きることである。
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